英領ウガンダ計画とは? わかりやすく解説

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英領ウガンダ計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 01:58 UTC 版)

英領ウガンダ計画(Uganda Scheme, British Uganda Programme)は、20世紀初頭にイギリス政府が、イギリス領東アフリカ(現在のケニアおよびウガンダ)の一部にユダヤ人国家を作ろうとした計画。ユダヤ人と現地植民地の双方の反対に遭い頓挫した[1][2]

経緯

計画の打診

当時の植民地相であったジョゼフ・チェンバレンは、1903年春にイズレイル・ザングウィルの紹介でシオニズム運動リーダーのテオドール・ヘルツルと会っている。以来ユダヤ人たちのパレスチナへの植民活動に注目しており、同年前半にイギリス領東アフリカを視察した際にもシオニズム組織のことが脳裏にあった。チェンバレンは「もしヘルツル博士らが努力の方向を東アフリカに変えてくれるとしたら、ユダヤ人入植者に適した土地を見つけることに困難はないであろう」とアフリカ訪問の報告書に書いている[3]。インド洋の港町モンバサからビクトリア湖岸のキスムまでのウガンダ鉄道が1901年に開通したばかりであったが、巨額の投資を回収するには沿線に白人入植者を住まわせて往来や物資輸送に使わせることが急務であった[4]。一向に進まない入植を一気に進めるための案が、ユダヤ人難民の入植であった。

チェンバレンはシオニズム運動グループにアフリカでの母国建設を打診した。当時、ロシア帝国ではユダヤ人に対してポグロムと呼ばれる虐殺が起こっていたが、チェンバレンは弾圧から逃れたユダヤ人のための行き場として、今日のケニアにあるマウ高原の5,000平方マイル(約13,000平方キロメートル)の土地の提供をもちかけている[5]。同地は現在はウアシン・ギシュ・カウンティとなっている場所で、チェンバレンはウガンダ鉄道で通った際に見た土地であった。ただし当地は1902年にウガンダ保護領から英領東アフリカ(後のケニア)に移管されており、英領ウガンダ計画は正確には今日のウガンダとは関係ない。

ユダヤ人アフリカ移民についてのイギリスの動機には以下のようなものがあった[4][6][7]

  • ポグロムから逃れたユダヤ人がロシアや東ヨーロッパからイギリスに大量に移民しており、イギリス人労働者の職を安い賃金でも働くユダヤ人移民から守るため、ユダヤ人を国外に送る必要があった
  • イギリス人の血税で建設したウガンダ鉄道の赤字を圧縮し投資を回収するため、鉄道沿線にユダヤ人の移民と投資を必要としていた
  • ユダヤ人を救うことで、ボーア戦争後悪化していた世界の対英感情をやわらげ、同戦争で政治的経済的に行き詰ったイギリスのアフリカ政策も改善させることが見込まれた
  • ポグロムで悪化するユダヤ人の福祉についての深い懸念がイギリス社会にはあった

チェンバレンと会ったころのテオドール・ヘルツルはシナイ半島キプロスなど、パレスチナに少しでも近い場所への移民を模索していたが、ちょうど1903年春にロシア帝国領のモルドバキシナウ・ポグロム英語版が起きたことで、どこでもいいからユダヤ人を守る祖国を作るべきという意見に傾いていた[1]。チェンバレンの打診は1903年にバーゼルで開催された第6回シオニスト会議の議題に上り、激しい議論が起こった[8][9]。このころ、イスラエルの地であるパレスチナへのユダヤ人入植は着々と進んでいたが、オスマン帝国の領内に独自のユダヤ人国家を築くという目標は行き詰まりを見せていた。アフリカの高原への入植を支持する者は、これをイスラエルの地への入植という最終目標に先立つ応急措置として「聖地への前室」(ante-chamber to the Holy Land)や「夜をしのぐための場所」(Nachtasyl)などと呼んだ。一方、この打診を受け入れてしまうと今後パレスチナへのユダヤ人国家建設が困難になってしまうと考え、強硬に反対する者もいた。採決の直前にロシアからの代表が抗議のため退出してしまう一幕もあったが、動議は295票のうち177票の賛成で可決された。

ウガンダ計画はすでに現地に入植を始めていたイギリス人からの反対にあった[4]。イギリス人移民は反シオニスト入植委員会を結成し、ウガンダの高原はユダヤ人よりも貧しいイギリス人にこそ与えられるべきであること、黒人現地人が大量移民をどう受け止めるか懸念されること、ロシアのドゥホボール派共同体の亡命をカナダが受け入れた際に起こった軋轢の再現が懸念されること、ユダヤ人の農作業の能力が疑われること、などの反対意見を出した。ウガンダ鉄道の建設のために移民したインド人も反対した[4]

調査

翌年、現地視察のためにシオニスト機構は現地調査委員(ボーア戦争に従軍しアフリカ探検でも名高いイギリス軍人のアルフレッド・ギボンズ、スイスの東洋学者で北西カメルーン会社の顧問でもあったアルフレート・カイザー、唯一のユダヤ人で技術者であったナフム・ウィルブッシュの三名)をマウ高原地帯へ派遣した。マウ高原は赤道直下にもかかわらず標高が高いため気候は穏やかで、ヨーロッパ人の入植には適した場所だと考えられていた。マウ高原の西は大地溝帯となっているためマウの断崖と呼ばれる急斜面であり、その下にはマウ・フォレストと呼ばれる森林があり、この地理的条件が高原を周囲から孤立させており、防衛にも適していると考えられていた。しかし代表たちは、ライオンほか危険な野獣が多いことを問題に挙げている。その上、ヨーロッパ人の入植を従順に受け入れそうにないマサイ族が大勢暮らしていることが問題であった。

計画の破棄

この報告を受け、翌1905年のシオニスト会議ではイギリスによる打診を丁重に断ることを決めた。ユダヤ人の中には打診を断ったことを失敗と考えた者もいた。イズレイル・ザングウィルらはイスラエルの地にこだわるシオニストと対立し、世界のどこであれユダヤ人が住むに適する場所にユダヤ人の国を持つべきだという「領土主義」を主張してシオニスト会議から離脱し、ユダヤ領土主義組織(Jewish Territorialist Organization)を結成してアメリカやアジア、アフリカなどでの国家樹立を模索した。

関連項目

脚注

  1. ^ a b Birnbaum, Ervin (1990). In the shadow of the struggle (1st ed.). Jerusalem: Gefen Publishing House. pp. 40–43. ISBN 965-229-037-8. OCLC 23184270. https://archive.org/details/inshadowofstrugg0000birn/page/40/mode/2up 2023年8月11日閲覧。 
  2. ^ Mitchell, Thomas G. (2013). Israel/Palestine and the politics of a two-state solution. Jefferson, North Carolina. ISBN 978-0-7864-7597-1. OCLC 823897667 
  3. ^ Rovner, Adam (2014). In the Shadow of Zion: Promised Lands Before Israel. p52a. NYU Press. ISBN 978-1-4798-1748-1.
  4. ^ a b c d Cliansmith, Michael (1974). “The Uganda Offer, 1902-1905: A Study of Settlement Concessions in British East Africa”. Ufahamu: A Journal of African Studies 5 (1). doi:10.5070/F751017515. ISSN 2150-5802. https://escholarship.org/uc/item/91x5k9wm. 
  5. ^ Theodor Herzl's biography at Jewish Virtual Library
  6. ^ Cohen, Netta (2021-12-31). “Shades of White: African Climate and Jewish European Bodies, 1903–1905”. The Journal of Imperial and Commonwealth History 50 (2): 298–316. doi:10.1080/03086534.2021.2020406. ISSN 0308-6534. 
  7. ^ Wohlgelernter, Maurice (1964). Israel Zangwill. Columbia University Press. doi:10.7312/wohl91636. ISBN 9780231884716 
  8. ^ Ervin Birnbaum (1990). In the Shadow of the Struggle. Gefen Publishing House Ltd. pp. 40–. ISBN 978-965-229-037-3. https://books.google.com/books?id=GB8uPatYT6kC&pg=PA40 
  9. ^ Thomas G. Mitchell (13 May 2013). Israel/Palestine and the Politics of a Two-State Solution. McFarland. pp. 152–. ISBN 978-0-7864-7597-1. https://books.google.com/books?id=ppQX6EcgZkcC&pg=PA152 

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