高原への白人入植と都市へのインド人移民
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「イギリス領東アフリカ」の記事における「高原への白人入植と都市へのインド人移民」の解説
1902年4月、英領東アフリカ最初の土地出願が「東アフリカシンジケート」(East Africa Syndicate)により行われた。この会社は、イギリス南アフリカ会社に属する出資者たちが設立したもので、気候の良く涼しい高原地帯の500平方マイルの土地をヨーロッパ人による植民のために使おうとした。さらに、ユダヤ人入植地を適切な場所に作るための出願もなされた(英領ウガンダ計画)。1903年4月、イギリス軍の高名なアフリカ探検家で東アフリカシンジケートの重役でもあったアメリカ人フレデリック・ラッセル・バーナム(英語版)が鉱物資源を求める探検隊を派遣した。ジョン・ウェストン・ブルック(英語版)に率いられた探検隊はナイロビからエルゴン山を経てルドルフ湖(現・トゥルカナ湖)西岸へ、水に事欠きマサイ族とも何度も遭遇する危険な旅を敢行した。1903年、数百人の入植者が南アフリカなどからケニアに到着した。しかしマサイ族の牧畜の権利保全をめぐる問題が持ち上がり、今後は大きな面積の土地利用の出願を受け付けないという決定がなされた。 この植民政策の遂行をめぐり、英領東アフリカの当時の弁務官チャールズ・エリオット卿と、英国外務大臣ランズダウン侯の間で論争が起こった。ランズダウン侯は東アフリカシンジケートに与えた誓約を守ろうとして、彼らに対する500平方マイルの賃貸を認可すべきとした。しかしロンドンにいた保護領官僚との話し合いの結果、彼は南アフリカからの入植者に対し別に50平方マイルの賃貸を行おうというエリオットの結論を拒んだ。エリオット卿は、新たな賃貸を禁じながら東アフリカシンジケートへの有利な賃貸契約を守るランズダウン侯の結論を不当な土地独占と述べて辞任している。1905年には管轄は英国外務省から植民地省(英語版)へ移り、同じ年に首都は海岸のモンバサから内陸高原地帯のナイロビへと遷った。
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