朝鮮王朝の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)
通交統制政策により朝鮮王朝は貿易の抑制を図るが、一方で偽使に付け込まれるような問題点を抱えており、偽使の活動を押さえ込むことはかなわなかった。 朝鮮王朝の抱える問題点として、まず形式主義的態度や微温的態度が挙げられる。朝鮮王朝にとって通交者の携行する書契・文引といった通交制度における形式が整っていることが最も重要であり、それに比べれば使節の名義人と実際の派遣主体が一致するかどうかはさほど重要な問題ではなかった。また朝鮮王朝にとってこうした通交は倭寇沈静化のための方策であり、中でも宗氏はその要と位置付けられていたため、宗氏が糸を引いた偽使である疑いを抱いても倭寇の再発を恐れて通交の禁止には踏み切れず、黙認あるいはその回のみ通交を許可等、微温的態度を取り続けていた。 また、朝鮮王朝の日本国内情勢に対する情報不足も挙げられる。偽使勢力は真使が通交することで偽使通交が露見することを恐れ、争乱に忙殺されている勢力や滅亡した勢力、あるいは架空の勢力名を使って通交していた。しかし朝鮮王朝は日本国内の情勢に疎く、名義人が通交可能な状況にあるか、あるいは実在するかどうかすら判別が付かず、偽使の通交を認めざるを得なかった。朝鮮王朝の日本国内情報不足の原因は、一つは朝鮮通信使の断絶によるものである。室町期や江戸期には朝鮮から日本へ朝鮮通信使と呼ばれる使節が通交していたが、室町期における通信使の往来は1443年を最後に途絶えてしまったのである。その後、1459年、79年にも通信使派遣の試みがされるが、1459年の通信使は対馬へ渡海の途上で海難事故を起こし中止となる。1479年の通信使は1470年代に大量通交した偽王城大臣使の名義人の実在を確認しようとするものでもあったが、宗氏から「南路兵乱」(瀬戸内海ルートは騒乱が起きていて通行出来ない)のため北路(日本海ルート)を取るように勧められ、京都への往来を断念して対馬から引き返し中止となる。こうした通信使の途絶により、朝鮮王朝は能動的に日本国内の情報を入手する方策を失う。また、文引制を期にほぼ全ての朝鮮通交者が宗氏の影響下に置かれたことも、日本国内情報を把握出来ない一因となっていた。朝鮮渡航者の大半が宗氏の統制下に置かれたことにより、朝鮮へ伝えられる情報には宗氏による情報操作が入るようになっていたのである。 表1 海東諸国紀に見る通交使節の格付け使節名派遣勢力船の数使節の人数路宴の回数日本国王使 室町幕府 3隻 25人 5 巨酋使 在京有力守護大内氏、少弐氏 2隻 15人 4 九州節度使宗氏特送 九州探題宗氏本宗家 1隻 3人 2 諸酋使島主歳遣船 深処倭対馬諸氏 1隻 1人 0 申叔舟 & 田中健夫 (1991)]、田代和生 (1983, p. 71)による。 朝鮮王朝が日本側の重層的勢力と多元的外交を行っていたことも、偽使を産み出す一因であった。明朝冊封体制下では「人臣に外交無し」という大原則があり、本来であれば外交は国家同士(この場合は室町幕府と朝鮮王朝)のものに限定され、宗氏のような陪臣は朝鮮王朝と外交関係を持つことは禁じられていた。しかし倭寇沈静化のため朝鮮王朝が多様な勢力に通交を認めたことにより、下は倭寇的地侍から上は室町幕府に至るまで重層的な勢力が朝鮮王朝と同時に外交を行うことになる。朝鮮王朝はこれらの通交者を同列に扱うことはせず、彼等を3ないし4等級に格付けし等級の高い勢力ほど尊重し優遇していた。一例を挙げると、室町期には朝鮮王朝の所有する大蔵経を求めて数多の勢力が通交するが、朝鮮王朝は原則として国王使(日本国王使・琉球国王使)にしか大蔵経を与えなかった。また、等級に応じて通交の際の随行使節の人数や接待の待遇等も定められていた(表1参照)。これは朝鮮王朝に通交する小勢力にとり、大勢力の名を騙った通交を行う方がより有利な結果を期待出来ることを意味していた。
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