通交統制政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)
通交権益をもって倭寇沈静化を図るという朝鮮王朝の狙いは当り前期倭寇は収束に向かうが、同時に通交者の増大を招くことに繋がった。朝鮮王朝は通交に起因する負担の増加に耐えかね、15世紀初頭から半ばにかけて、通交統制制度の整備を進め貿易の抑制を図った。朝鮮王朝の行った通交統制政策は次のようなものである。 入港場の制限 : 15世紀に入るまでは入港場に制限は無く、通交者は随意の浦に入港していた。しかし、朝鮮王朝は各地の防備情報が倭寇へ漏れることを恐れ、1400年から1410年にかけて、入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道昌原市)に制限した 。後に塩浦(蔚山広域市)も入港場に追加され、三浦と呼ばれる日本人居留地の形成へと繋がる。 図書による査証 : 図書とは朝鮮王朝が通交許可を与えた者に発給した銅製印章のことである。通交使節は図書を押印した書契(外交文書の一種)を携行し、朝鮮側に残された台帳の印影と書契のそれを照らし合わせることで査証(外交使節の真偽を審査・認証すること)を行った。最初に図書を受給したのは、1418年の西海路美作太守浄存である。当初図書には単なる贈答品以上の意味合いは無く、図書を受けることなく通交を続ける者も存在したが、次第に図書の受給が通交許可を意味するようになっていった。こうした図書を受け通交権を得た者は受図書人と呼ばれた。 書契による統制 : 日朝貿易初期には、上は室町幕府から下は倭寇的地侍や商人まで重層的な勢力が通交していた。朝鮮王朝は地侍や商人のような雑多な通交者を日本側に統制させようと目論み、1419年に九州から渡航する者に渋川氏の発行する書契を、1420年に対馬から渡航する者には宗氏の発行する書契の携行を義務付けた [長節子2002、6頁]。しかし1425年に渋川氏は少弐氏・菊池氏に攻められて没落し書契発行権は大友氏・佐志氏・志佐氏等に分散する。また対馬では宗氏本宗家以外にも宗氏有力庶家や早田氏等の有力者にも書契の発行権が認められており、図書による統制は通交の寡占をもたらしはしたものの一元的管理にまでは至らなかった。 文引制 : 書契による統制をより強化しようと導入されたのが文引制である。文引制とは、日本から朝鮮へ渡航する全ての通交者に宗氏の発行する文引(朝鮮渡航許可証)の携行を義務付けた制度である。文引制により全ての朝鮮通交は宗氏の統制下に置かれることになり、宗氏の領国形成に大きな力を発揮した。 歳遣船定約 : 歳遣船定約とは年間通交回数の上限を定めた約条のことであり、朝鮮王朝と個々の通交者との間で個別に締約された。歳遣船定約が導入されるまでは通交頻度に関する規定は存在しなかったが、貿易の抑制を図る朝鮮王朝は受図書人の通交にも制限を加えたのである。初めに歳遣船が定約化されたのは、1423年の渋川氏である。その後1443年の嘉吉条約で対馬全勢力の歳遣船定約化、1450年代に残る全ての通交者の歳遣船定約化が成される。ただし、歳遣船の対象には日本国王使(室町幕府の使節)や琉球国王使、王城大臣使(室町幕府在京有力守護の使節)は含まれていなかった。 15世紀初頭には、倭寇的地侍や一介の商人のような者も朝鮮に通交していたが、朝鮮王朝は「図書による査証」、「書契による統制」、文引制によりこうした雑多な通交を規制し通交の寡占化を行なった。その後、残った通交者に対しても歳遣船定約を導入することで通交の抑制を図ったのである。
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