嘉吉条約以前とは? わかりやすく解説

嘉吉条約以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)

偽使」の記事における「嘉吉条約以前」の解説

朝鮮王朝建国当初には通交統制制度存在せず14世紀末から15世紀半ばにかけては制度固まっていく過渡期にあたる。偽使通交統制制度導入される以前から活動しており、偽使初見1397年朝鮮通交した今川了俊名義使送である。今川了俊1395年九州探題解任され九州離れ1396年には後任渋川満頼九州着任しており、この偽使は了俊の元で通交業務請け負っていた者もしくは渋川氏よるもの見られている。その後通交統制制度整備されていくに伴い統制潜り抜けようと偽使出現する統制制度のうち「図書による査証」や「書契による統制」は地侍商人などの雑多な通交者を規制するものであり、この時期偽使規制の対象とされた博多商人対馬中小勢力等派遣したのである一方、後に偽使勢力主体となる宗氏朝鮮王朝通交統制政策協力する中で領国支配強化行っていた。 1419年1420年に「書契による統制」が定められると、1423年統制対象外に当たる琉球国王使の名を騙った偽使出現する(偽琉球国王使の初見)。博多商人派遣したこの琉球国王使は偽使であることを見破られ通交阻まれるが、翌年渋川氏通交年間20余回に急増する当時こうした通交は、日本側は貿易目的行っていたにせよ、形式的に貿易書状携帯した外交使節往来付随するものであり、先に送った書状返書受けた後に次の使節送り出すのが正常な姿であった当時九州から漢城までの往復には3ヵ月ほど掛かった推測され正常なやり取りでは年3回通交限度であった。この渋川氏名義通交明らかにこうした慣例無視したものであり、その大半博多商人通交請け負ったもの、もしくは名義借りて通交したもの見られている。通交急増を受け、朝鮮王朝渋川氏と年2回の歳遣船定約を結び通交抑制図った。翌25年渋川氏少弐氏菊池氏攻められ没落すると、博多商人渋川氏没落隠しながら偽使通交続ける。しかし歳遣船化され渋川氏名義では以前頻度通交維持来るものではなく書契発給持ち博多息浜を領有して博多商人繋がり有る大友氏新たな後ろ盾とすることになる。1439年朝鮮王朝大友氏名義通交増大していることを指摘しているが、これらは博多商人大友氏から通交請負ったもの、あるいは名義借りて通交したもの大半占めると見られている。 宗氏鎌倉期より少弐氏被官であり、室町期筑前守護代として少弐氏支えて北九州転戦し北九州少なからぬ所領確保していた。その一方で代々当主北九州出兵追われ対馬定着して領国支配専念することが出来ず今川了俊後援受けた仁井中村宗氏宗氏有力庶家一つ)に一時家督簒奪されるなど、その領国支配安定しなかった。1398年宗貞茂仁井中村宗氏から家督奪還し当主の座に就くが、彼もまた九州出陣中に起きた叛乱により一時対馬支配権奪われている。叛乱鎮圧した貞茂は、弟貞澄を筑前又代(守護代代官)に任命して筑前支配任せ自身対馬定着して領国支配力を入れた。貞茂は朝鮮との関係重視し対馬倭寇地侍達を貿易商人変質させるなど倭寇禁圧力を入れ朝鮮王朝からも厚い信頼受けていた。貞茂の跡を継いだ貞盛もまた対馬定着し領国支配に力を注いだ貞盛朝鮮王朝進め通交統制政策協力しその中で対馬諸勢力朝鮮通交自身統制下に置くことで領国支配強化進めた1420年に「書契による統制」が定められる対馬中小勢力自己名義による朝鮮通交禁止され貞盛から書契を受け名義借り通交を行うことを強いられた1434年貞盛名義貸し実態朝鮮王朝伝え自身通交名義貸し通交では書契における印章位置押し分けるので両者区別して扱うよう要請して認められており、この名義貸し通交朝鮮王朝了承得たものであった。 しかし「書契による統制」では貞盛以外の複数対馬有力者にも書契発行認められており、また貞盛名義書契偽造し通交する偽使出現する等、宗氏領国支配推し進める上で不徹底なものであった貞盛統制力さらなる強化目指し1426年文引制を朝鮮王朝提案する1438年には文引制の骨格固まり一部例外を除く全ての朝鮮通交宗氏統制下に置かれることになり、宗氏領国支配飛躍的に強化されることになる。また文引導入後通交使節審査厳格に行われるようになった結果宗貞盛・盛国・茂直(仁井中村宗氏)の名を騙る偽使相次いで摘発されている。朝鮮王朝は特に九州からの通交者に注視し神経尖らせていたが、この九州から通交する偽使博多商人派遣したものと見られている。 こうした通交統制強化が進む中、博多商人室町幕府との提携進めた室町幕府朝鮮王朝同格存在であり、その通交朝鮮王朝宗氏制約を受けるものではなかったからである。博多商人一人宗金遣明船派遣協力することで幕府歓心を買い、日本国王使や管領斯波氏通交代行任されるまでに至る。1430年宗金同じく博多商人の道性と共に日本国王使として朝鮮通交し、翌年には宗金差し金と見られる日本国王使が出現する(偽日本国王使の初見)。日本国王使の携える国書漢詩漢文作文能力秀でた京都五山禅僧修辞技術古典知識駆使して作成したもので、紙の種類折り方国書納める箱にも特段工夫施されており、国書偽造には高度の教養技術が必要とされていた。この時の日本国王使の携行した国書はこうした先例適ったものではなく偽使であることが露見している。博多商人日本国王使の請負通交だけでは望む頻度通交叶わぬため、名義詐称偽使派遣試みたのであるがこれは失敗終っている。しかし1448年博多商人日本国王使に便乗した偽使通交成功している。この日本国王使は本来であれば使送船(使節派遣する船)1隻をもって通交するものであったが、博多商人使送船を3隻に水増しし大量の丹木・輸出図った彼等偽使通交のために国書すり替え行ったが、この偽造国書日本国王使の正使、文渓正祐(もんけいしょうゆう)が博多作成した物で、先の1431年の物とは違い真偽見分け付かない精巧なものであった。この便乗偽使通交は、国書文言事前に連絡した内容齟齬有ること、本来の使送船は1隻であるはずと宗氏から朝鮮王朝連絡があったことなどから紛糾するが、文渓正祐の粘り強い交渉により通交認められている。この文渓正祐は京都白河建聖院の住持から日本国王使正使選任され人物であるが、元々博多周辺活動し渋川氏使送として朝鮮渡航経験有り博多商人との繋がり持っていた。博多商人は文渓正祐との縁故利用することで便乗偽使通交成功させたのである

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