嘉吉条約以前
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朝鮮王朝建国当初には通交統制制度は存在せず、14世紀末から15世紀半ばにかけては制度の固まっていく過渡期にあたる。偽使は通交統制制度が導入される以前から活動しており、偽使の初見は1397年に朝鮮に通交した今川了俊名義の使送である。今川了俊は1395年に九州探題を解任されて九州を離れ、1396年には後任の渋川満頼が九州に着任しており、この偽使は了俊の元で通交業務を請け負っていた者もしくは渋川氏によるものと見られている。その後通交統制制度が整備されていくに伴い、統制を潜り抜けようと偽使が出現する。統制制度のうち「図書による査証」や「書契による統制」は地侍や商人などの雑多な通交者を規制するものであり、この時期の偽使は規制の対象とされた博多商人や対馬中小勢力等が派遣したものである。一方、後に偽使勢力の主体となる宗氏は朝鮮王朝の通交統制政策に協力する中で領国支配の強化を行っていた。 1419年・1420年に「書契による統制」が定められると、1423年に統制の対象外に当たる琉球国王使の名を騙った偽使が出現する(偽琉球国王使の初見)。博多商人の派遣したこの琉球国王使は偽使であることを見破られ通交を阻まれるが、翌年に渋川氏の通交が年間20余回に急増する。当時のこうした通交は、日本側は貿易目的で行っていたにせよ、形式的に貿易は書状を携帯した外交使節の往来に付随するものであり、先に送った書状の返書を受けた後に次の使節を送り出すのが正常な姿であった。当時九州から漢城までの往復には3ヵ月ほど掛かったと推測され、正常なやり取りでは年3回の通交が限度であった。この渋川氏名義の通交は明らかにこうした慣例を無視したものであり、その大半は博多商人が通交を請け負ったもの、もしくは名義を借りて通交したものと見られている。通交の急増を受け、朝鮮王朝は渋川氏と年2回の歳遣船定約を結び通交の抑制を図った。翌25年に渋川氏が少弐氏・菊池氏に攻められて没落すると、博多商人は渋川氏の没落を隠しながら偽使通交を続ける。しかし歳遣船化された渋川氏名義では以前の頻度の通交を維持来るものではなく、書契発給権を持ち博多息浜を領有して博多商人と繋がりも有る大友氏を新たな後ろ盾とすることになる。1439年に朝鮮王朝は大友氏名義の通交が増大していることを指摘しているが、これらは博多商人が大友氏から通交を請負ったもの、あるいは名義を借りて通交したものが大半を占めると見られている。 宗氏は鎌倉期より少弐氏の被官であり、室町期は筑前守護代として少弐氏を支えて北九州を転戦し、北九州に少なからぬ所領を確保していた。その一方で代々当主は北九州出兵に追われて対馬に定着して領国支配に専念することが出来ず、今川了俊の後援を受けた仁井中村宗氏(宗氏有力庶家の一つ)に一時家督を簒奪されるなど、その領国支配は安定しなかった。1398年、宗貞茂は仁井中村宗氏から家督を奪還して当主の座に就くが、彼もまた九州出陣中に起きた叛乱により一時対馬の支配権を奪われている。叛乱を鎮圧した貞茂は、弟貞澄を筑前又代(守護代の代官)に任命して筑前支配を任せ、自身は対馬に定着して領国支配に力を入れた。貞茂は朝鮮との関係を重視し、対馬の倭寇的地侍達を貿易商人に変質させるなど倭寇禁圧に力を入れ、朝鮮王朝からも厚い信頼を受けていた。貞茂の跡を継いだ貞盛もまた対馬に定着し領国支配に力を注いだ。貞盛は朝鮮王朝の進める通交統制政策に協力し、その中で対馬諸勢力の朝鮮通交を自身の統制下に置くことで領国支配の強化を進めた。1420年に「書契による統制」が定められると対馬中小勢力は自己名義による朝鮮通交を禁止され、貞盛から書契を受け名義借り通交を行うことを強いられた。1434年に貞盛は名義貸しの実態を朝鮮王朝に伝え、自身の通交と名義貸し通交では書契における印章の位置を押し分けるので両者を区別して扱うよう要請して認められており、この名義貸し通交は朝鮮王朝の了承を得たものであった。 しかし「書契による統制」では貞盛以外の複数の対馬内有力者にも書契発行権が認められており、また貞盛名義の書契を偽造し通交する偽使も出現する等、宗氏が領国支配を推し進める上では不徹底なものであった。貞盛は統制力のさらなる強化を目指し1426年に文引制を朝鮮王朝に提案する。1438年には文引制の骨格が固まり一部の例外を除く全ての朝鮮通交は宗氏の統制下に置かれることになり、宗氏の領国支配は飛躍的に強化されることになる。また文引制導入後に通交使節の審査が厳格に行われるようになった結果、宗貞盛・盛国・茂直(仁井中村宗氏)の名を騙る偽使が相次いで摘発されている。朝鮮王朝は特に九州からの通交者に注視し神経を尖らせていたが、この九州から通交する偽使は博多商人の派遣したものと見られている。 こうした通交統制の強化が進む中、博多商人は室町幕府との提携を進めた。室町幕府は朝鮮王朝と同格の存在であり、その通交は朝鮮王朝や宗氏の制約を受けるものではなかったからである。博多商人の一人、宗金は遣明船派遣に協力することで幕府の歓心を買い、日本国王使や管領斯波氏通交の代行を任されるまでに至る。1430年、宗金は同じく博多商人の道性と共に日本国王使として朝鮮に通交し、翌年には宗金の差し金と見られる偽日本国王使が出現する(偽日本国王使の初見)。日本国王使の携える国書は漢詩・漢文の作文能力に秀でた京都五山系禅僧が修辞技術・古典知識を駆使して作成したもので、紙の種類や折り方、国書を納める箱にも特段の工夫が施されており、国書偽造には高度の教養・技術が必要とされていた。この時の偽日本国王使の携行した国書はこうした先例に適ったものではなく、偽使であることが露見している。博多商人は日本国王使の請負通交だけでは望む頻度の通交が叶わぬため、名義詐称型偽使の派遣も試みたのであるがこれは失敗に終っている。しかし1448年に博多商人は日本国王使に便乗した偽使通交に成功している。この日本国王使は本来であれば使送船(使節を派遣する船)1隻をもって通交するものであったが、博多商人は使送船を3隻に水増しし、大量の丹木・銅鉄の輸出を図った。彼等は偽使通交のために国書のすり替えも行ったが、この偽造国書は日本国王使の正使、文渓正祐(もんけいしょうゆう)が博多で作成した物で、先の1431年の物とは違い真偽の見分けの付かない精巧なものであった。この便乗型偽使通交は、国書の文言と事前に連絡した内容に齟齬が有ること、本来の使送船は1隻であるはずと宗氏から朝鮮王朝に連絡があったことなどから紛糾するが、文渓正祐の粘り強い交渉により通交が認められている。この文渓正祐は京都白河建聖院の住持から日本国王使正使に選任された人物であるが、元々博多周辺で活動し渋川氏使送として朝鮮渡航経験も有り、博多商人との繋がりも持っていた。博多商人は文渓正祐との縁故を利用することで便乗型偽使通交を成功させたのである。
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