嘉吉条約から三浦の乱まで
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15世紀前半において、宗氏は朝鮮王朝の進める通交統制政策に協力する中で朝鮮通交権を掌握し、家臣団に再分配することで領国支配を進めていた。しかし1443年に嘉吉条約が締結され通交権が年間50隻に抑えられたことから宗氏と朝鮮王朝の蜜月関係は終り、宗氏は偽使をもって通交権の拡大を図ることになる。 1452年に朝鮮王朝に協力的であった貞盛が没し成職が跡を継ぐと、1453年より深処倭名義の通交が急増し1455年には朝鮮を訪れた使送倭人は6千人を超える。嘉吉条約により対馬諸勢力の通交は歳遣船の制約下にあったが、深処倭には歳遣船定約がなされていなかったのである。1455年、朝鮮王朝は通交頻度の急増した深処倭10名の名を挙げ、彼等に歳遣船定約を結ばせるよう宗氏に要請した。彼等の通交頻度はそれまでは多くても年2回程度であったが1453年から急増し、多い者は年10回も通交していたのである。翌年この10名の通交は歳遣船定約化され、これを契機として1450年代に残る全ての深処倭についても歳遣船定約が結ばれることになる。以下に伊集院煕久・田平弘・塩津留聞名義通交を事例に細述するが、この急増した深処倭名義の通交は宗氏の派遣した偽使によるものであった。 伊集院煕久名義通交 : 伊集院煕久は島津氏の一族で薩摩伊集院の領主であった。伊集院氏が初めて朝鮮に通交したのは、1395年、煕久の父頼久の代のことである。煕久の通交は1436年に始まり、通常年1・2回程度の頻度で続けられた。1450年に伊集院煕久は島津本家の忠国に攻められて所領を失い肥後に逃亡して以降行方不明となるが、その後も煕久名義の通交は続き1453年から急増する。朝鮮王朝から通交頻度増加の指摘を受けた翌年に煕久名義通交は歳遣船定約化され、その後も1510年の三浦の乱まで継続するが、伊集院氏使送船の乗組員が三浦の乱に参加したことから通交を禁止され以後復活することは無かった。伊集院煕久名義通交は、所領を失い行方不明となった者が大規模な資本を必要とする通交を続けている点、1510年まで74年間図書の更新がされなかった点、など不自然な点が多く、これらは照久本人によるものではなく、第三者、それも三浦の乱を主導した宗氏によるものと見られている。宗氏は名義詐称型偽使により、伊集院氏名義という既存の通交権を入手したのである。 田平弘名義通交 : 田平弘名義の通交は1454年に始まり、同年既に年6回の通交を行っている。田平氏は1400年より朝鮮通交を行っており、田平弘も1436年の下松浦平戸党一揆契約状に署名が確認される実在の人物である。しかし、宗家旧蔵図書・木印群に田平弘名義の木印(木製偽造印章)が含まれていたこと、その木印は図書を模した物ではなく通交権を入手するための最初の朝鮮通交時に使用するために造られた私印であったことから、田平弘名義の通交は1454年の最初のものから宗氏による偽使であったと考えられている。つまり宗氏は既存の通交権を入手したのではなく、名義詐称型偽使により新な通交権を創出したのである。 塩津留聞名義通交 : 塩津留聞は壱岐を本拠としていた松浦党の一員である。塩津留氏は1444年から定期的に朝鮮に通交し、一族の中で通交名義を3名確保するなど朝鮮通交に力を入れていた。塩津留氏は1472年に松浦党の一人波多泰に攻められて壱岐を追われ対馬へ逃亡して宗氏の被官となり、その後も文禄の役まで朝鮮通交を続けている。1453〜55年の通交にどの程度塩津留聞本人の関与があったのかは不明であるが、塩津留氏側にこの時期通交を急増させるような要因は見当たらず、この時期の通交の大半は宗氏が塩津留氏から名義を借り受けて行ったものと見られている。後年のことになるが、対馬亡命後の1474年塩津留氏は宗氏から文引年1回発給を受けることを約束されている。塩津留氏は年2隻の歳遣船定約者であったことから、残りの1回の通交権は宗氏が塩津留氏から借受けて行使したとみられている。三浦の乱後に塩津留氏名義の歳遣船が年1隻に削減されると塩津留氏は宗氏と交互に2年に1回の隔年通交を行った。その他、塩津留氏は壱岐牧山氏から通交権を譲り受けて牧山氏名義の偽使通交も行っていた。牧山氏は名義料という形で一定の権利を留保していたものの、通交の運用には一切関わっておらず、実質的には通交権を譲渡したものとされている。これらの塩津留聞名義通交は、名義借型・名義譲渡型偽使通交に当たる。 表3 宗氏掌握通交権の推移年代島主歳遣船自己名義偽使通交権合計歳遣船受職人船歳遣船受職人船1443年(嘉吉条約) 50 0 0 0 0 50 1480〜1500年代 50 32 14 (49) 0 (145) 1512年(壬申約条) 25 0 0 0 0 25 1530年代 30 0 0 13 16 59 1550〜60年代 30 3 1 43 26 103 1570〜80年代 30 0 1 49 38 118 1609年(己酉約条) 20 1 1 0 0 22 この表は荒木和憲 (2007, p. 275)に拠る。 このように、宗氏は偽使を用いた新たな通交権の創出、既存の通交権の乗っ取り、名義借りや名義譲渡などの手段を駆使し通交権の集積を進めた。朝鮮王朝は1450年代に深処倭全ての歳遣船化を進めたが、この歳遣船化の流れの中で宗氏は残る深処倭名義の通交権も掌握していったと見られている。それというのも、朝鮮王朝は歳遣船化の交渉を宗氏に委ねていたこと、文引制により受図書人・受職人の通交であれ宗氏の統制下にあったこと、元々深処倭の通交頻度は年1隻程度であり、歳遣船定約によって年2隻の通交が認められると1隻分宗氏に貸与する余裕が生じたからである。17世紀末に編纂された『系図外聞書記』に貞国が通交権を買い求めたとする伝承が残されていることから、通交権の対馬集中は成職・貞国の代に進んだとみられる。三浦の乱の起こる1510年頃には深処倭名義の歳遣船は年49隻であったが、偽使通交権の集積が進んだことによりその大半は宗氏の派遣する偽使だったと推測されている。 また1455年から偽王城大臣使の通交が始まる。王城大臣使とは、畠山氏、細川氏、斯波氏等の室町幕府在京有力守護の使節のことを指し、朝鮮王朝は日本国王使に次ぐ存在として図書による査証や通交回数の制限を設けない等の優遇を与えていた。真の王城大臣使の通交は、1409年に斯波義将が国王代理として通交したものと1431年に斯波義淳が通交したものの計2回に過ぎない。その後1455年から69年までに王城大臣使は計19回通交するが、これらはみな宗氏が派遣した偽使であった。偽王城大臣使の派遣のきっかけは、1454年より始まり応仁・文明の乱の契機ともなった畠山氏の家督争いである。偽使勢力にとり、真使通交によりそれまでの偽使通交が露見することは避けるべきことであり、名義を騙る相手が家督争いや騒乱に忙殺されていることは好都合であったのである。宗氏による偽王城大臣使通交では、博多商人の偽日本国王使通交と同様、外交僧が重要な役割を果たした。1450年代に宗氏の外交僧を務めたのは梅林寺初代鉄歓であったが、1463年からその地位は仰之梵高(きょうしぼんこう)が務めていた。仰之梵高は天竜寺妙智院系の五山僧であったが、1463年に日本国王使の副使として朝鮮へ通交し、その帰路請われて対馬に止まり宗氏に協力して偽使通交体制を築いていった。この1463年に通交した日本国王使は室町幕府の派遣した真使であるが、対馬から偽王城大臣使が同行し、国書にも同行者として偽王城大臣使の名が書き加えられていた。宗氏は仰之梵高を得ることで高度な外交文書作成能力を手に入れ、また北九州の禅宗幻住派のネットワークと結びつき、偽使派遣体制を整えていった。 一方、博多商人は琉球国王使の請負通交を行うようになっていた。明朝が海禁政策を敷いて以降、宋・元代に東シナ海海域で活発に活動していた中国人海商の活動は封じられ、代わって中継貿易を行ったのが琉球王国であった。明朝は琉球王国に1年1貢と有利な通交を認め、明朝と各冊封国間の中継貿易を任せていたのである [高良倉吉1993、81頁]。こうした状況を背景に琉朝通交(琉球・朝鮮間の通交)は琉球側が三山統一以前、朝鮮側は高麗王朝期にあたる1389年から続いていた。しかし15世紀半ばになると、倭寇リスクを避けるため、琉朝通交は博多・対馬商人が国書・進物を預かり代わりに通交を行う請負通交へと姿を変えていた。こうした中、博多商人道安は1453年に琉球国王使として請負通交を行い、1455年には名義詐称型の偽琉球国王使の通交にも成功する。さらに1457年に再度琉球国王使の請負通交を行うが、帰路、対馬で宗氏に贈答品を奪われ、以後琉朝通交から締め出される。当時宗氏は文引制を以って全ての朝鮮通交を自身の統制下に置こうとしており、博多商人の展開する日本国王使や琉球国王使の請負・偽使通交は、宗氏の統制の効かないところで繰り広げられる目障りな活動であった。宗氏は朝鮮通交における主導権を確保するため博多商人に掣肘を加えたのである。この事件は博多商人にとり、安定的な朝鮮通交を行うためには宗氏との提携が必要不可欠であることを示すものであった。 深処倭名義の偽使や偽王城大臣使、偽琉球国王使などは恒常的な偽使通交を目指したものであるが、1467年から1470年にかけて一回限りの単発的な偽使が大量に発生する。7代朝鮮国王世祖は端宗から王位を簒奪して即位した人物であったが、王権強化のため日本から祝賀使の迎え入れを図っていた。世祖は仏教的奇瑞が度々表れたと称し、室町幕府に祝賀使の派遣を要請する。1467年に肥前那久野(名護屋)藤原頼永使送として通交した寿藺は、室町幕府に祝賀使派遣を要請する書契を託され京に上ることになる。この寿藺出立後から、仏教的奇瑞を祝うとして海浜小領主達の派遣する無数の祝賀使が出現するが、これらは宗氏の派遣した偽使であった。これらの偽祝賀使通交は、まず朝鮮王朝の瑞祥を伝え聞いたと称する祝賀使群が表れる。当初はこれを受け入れていた朝鮮王朝が祝賀使通交の制限に転じると、残りの祝賀使達は貞国の請状を受けることで通交を強行した。その後、宗氏の仕立て上げた偽日本国王使及びその護衛と称する無数の使節が通交する。これらの使節は、 海賊大将や海辺領主など、倭寇対策に力を入れていた朝鮮王朝が無視出来ない勢力名を名乗っていたこと。 既存の通交者の名が見当たらないこと。特に対馬から通交する者が皆無で、遠隔地の者が多いことが逆に不審である点。 通交名義人の多くが架空のものや物故者であったこと。 などから、宗氏の創出した偽使であると見られている。 15世紀後半になるまで、博多商人と宗氏の関係は安定せず、博多商人の偽使通交は宗氏から妨害を受けてきた。しかしこうした関係は宗貞国の博多進駐によって転換期を迎える。宗氏の主家である少弐氏は、室町期において大内氏との度重なる抗争の中衰退し、幾度となく筑前の本拠を追われて対馬へ亡命していた。特に1441年には領地をことごとく喪失し、44年には宗氏もまた北九州から駆逐されていた。少弐氏は宗氏を動員して筑前回復の兵を起こすが、成功を収めることはなく対馬に寄寓するままであった。しかし応仁・文明の乱において大内氏が山名氏に組すると、足利義政は少弐氏・宗氏を懐柔して大内氏牽制を図った。1469年、貞国は義政に応じ、少弐頼忠を奉じて筑前へ出陣し大宰府を回復する。この筑前出兵は宗氏にとっても大きな意味を持ち、それまで最重要視してきた朝鮮通交においても一時期歳遣船が完全に途絶えるほど力を注ぐものであった。しかし筑前出兵中に貞国と頼忠が不仲になったことから、貞国は1471年に対馬へ帰島してしまう。海東諸国紀に拠ると、両者の不和の原因は頼忠が肥前千葉氏の内訌に介入し、強いて貞国に出兵させた結果大雪のため大敗を喫したことにあるとされている。貞国帰島後も宗氏は軍勢の一部を北九州に残留させていたが、大内政弘が貞国抱き込みを図ったことにより宗氏と少弐氏の関係は終わる。1477年の応仁・文明の乱の終結を受け、政弘は本国に帰国し少弐氏と対決するが、政弘は貞国と頼忠の不和を聞き知り幕府を通じて貞国の抱き込みを行ったのである。その結果78年に政弘が攻勢をかけた際も貞国は頼忠に援軍を送らず、頼忠は敗れ肥前へ逃亡し、少弐氏と宗氏の断絶は決定的となる。宗氏はこれをきっかけに大内氏と友好的な関係を築き上げ、後の大内氏協力による偽日本国王使の派遣へと繋がることになる。この貞国の博多出兵は、宗氏と博多商人の提携、偽使通交権の分裂、宗氏と大内氏の接近、といった影響を残すことになる。 筑前出兵の最中貞国は博多近辺に駐屯しており、その間に宗氏と博多商人の提携がなされた [橋本雄2005、159〜165頁]。宗氏と緊密な関係を築いた博多商人は偽王城大臣使通交に参加を許され、1470年から74年までの短期間に合計15回と大量の偽王城大臣使を派遣し「朝鮮遣使ブーム」と呼ばれている。「朝鮮遣使ブーム」は、 莫大な資本を必要とする通交を短期間に大量に行ったこと 当該期に宗氏は博多出兵の影響で歳遣船すら途絶しており、こうした大規模通交を行う余力はないと推測されること それまでの偽王城大臣使は実在の人物の名義を使っていたのに対し、「朝鮮遣使ブーム」における王城大臣使は完全に架空の名義を名乗っていること 偽王城大臣使使送に博多商人が名を連ねていること などから博多商人主導で行われたものと推測されている。またそれ以外にも、宗金の孫宗茂信は貞国の協力によって受職人となった他、宗氏名義の通交を博多商人が請負うなど、博多商人は宗氏と密接な関係を築いていった [伊藤幸司2005、134頁]。さらに、宗氏との関係が安定したことを受け、博多商人は琉朝通交においても大胆な活動を展開する。1471年に琉球国王使の請負通交として朝鮮へ渡航した博多商人平左衛門尉信重は、朝鮮王朝に割印制の導入を提案する。『歴代宝案』に残された琉球王朝側の記録には割印制について記載されておらず、これは博多商人が国書を改竄して盛り込んだものであった。先述のように琉朝通交は既に博多商人や対馬商人による請負通交によって行われておりその中に名義詐称型偽使も紛れ込んでいたが、割印制はこうした偽使通交をさらに容易ならしめるものであった。また琉朝貿易には対馬・博多商人の他に薩摩商人も参入を図っており博多商人の中も一枚岩ではなかったが、割印制はこうした偽使勢力内部の争いについても主導権を約束するものとなった。割印制導入後20年程博多商人は安定した偽使通交を続けるが、1492年頃彼等は何らかの理由で割印を喪失し、博多商人による偽琉球国王使の通交は終わる。 貞国博多駐屯時、当主が対馬を離れたことで偽使通交権に分裂が見られた。貞国の筑前出兵中は守護代である宗盛直・宗職盛父子が文引発行権を掌握していたが、彼等、あるいはその後援を受けた対馬残留組の何者かが九州出兵組の持つ偽使通交権を乗っ取り、「偽使の偽使」を派遣したのである。通交権の分裂は、菊池氏、呼子氏、神田氏名義の通交で確認されている。ここでは菊池氏を事例に偽使通交権の分裂の細述を行う。菊池氏名義の通交権は肥後太守を名乗ったものと肥後・筑後二州太守を名乗ったものの2組存在し、両者とも宗氏による偽使通交権であったと考えられている。そのうち、通交権の分裂が確認されたのは肥筑二州太守名義の通交である。1468年、菊池為邦使送が朝鮮に通交した際、「為邦」と彫られた図書を受給する。しかし70年に通交した菊池氏使送は、68年に受けた図書を紛失したとし新たな図書を請願した。朝鮮王朝が「菊池為邦」と彫られた新図書を発給したところ数年間新図書を用いた通交が続いた。しかし74年に為邦の子重朝の使送を名乗る者が表れ、「68年に為邦が死亡し、図書を受けた重朝は上洛していて通交出来なかった。帰国したところ父の名を騙って通交している者が居ることを知った。」として図書の改給を請願し、紛失したとされてきた「為邦」図書を提出した。こうした最中に「菊池為邦」図書を使用した菊池氏使送が漢城に現れたため、漢城で偽使同士が対決することになる。朝鮮王朝は「遠くのことは見極め難い」と宗氏に解決を委ね、結局重朝名義の通交が認められることになる。これは菊池為邦名義の通交権所有者が九州に出兵中、対馬残留組のうちの何者かが通交権を行使しようと「偽使の偽使」を派遣していたものである。「偽使の偽使」を派遣していたのが何者なのか不明であるが、朝鮮通交には必ず文引が必要であったことから、貞国離島中に文引発給権を掌握していた盛直・職盛父子の関与、少なくとも黙認があったものと考えられる。文引発給権・偽使通交権の分裂は貞国帰国後もすぐには納まらなかったが、次第に文引発給権は貞国の元に回収され、通交権の分裂は解消した。 また、1470年代には大内氏関係の偽使の疑いを持たれる使者の存在も確認される。1465年に大内教弘が没して子の政弘が後を継いだが、2年後に発生した応仁の乱では西軍の一員として上洛していたために、家督継承後に初めて使者を派遣したのは1479年のことであったが、この時までに大内氏名義の使者が既に3度朝鮮に派遣されていた(『成宗実録』四年8月戊辰条・五年7月庚辰条・九年正月己卯条)。これを知った政弘の使者はそれらは貴国から与えられた印のない偽使であると述べた。ただし、これを直ちに偽使であると断定できないのは、当時の大内氏の家督を巡っては教弘の兄である大内教幸(道頓)が家督を主張して教弘・政弘父子と抗争をしており、特に応仁の乱当時には東軍によって教幸が大内氏の当主に任ぜられて重臣たちも両派に分裂していた経緯があるためである。つまり、この時期の使者が全くの偽使であった可能性も否定はできないものの、東軍方によって大内氏当主とされた大内教幸が派遣した使者の正統性を西軍方につき最終的な家督争いの勝者となった政弘が否認したに過ぎない可能性もあるからである。 一方、1470年代の偽王城大臣使の大量通交を受け、朝鮮王朝と室町幕府は1482年に牙符制を導入する。牙符制とは象牙製の半割にした割符をもって使節の査証を行う制度であり、王城大臣使と日本国王使に適用された。宗氏・博多商人は牙符制の壁を打ち崩すことが出来ず、偽王城大臣使の通交は一時途絶えることになる。しかし後に明応の政変によって牙符は大内氏・大友氏の元へ流出し、宗氏は大内氏・大友氏と緊密な関係を築くことで偽日本国王使・偽王城大臣使を派遣することになる。 詳細は「牙符制」を参照 宗氏の掌握する通交権は1443年の嘉吉条約締結時には年間50隻に過ぎなかったが、偽使通交権の集積が進められた結果、15世紀末には毎年100隻を超す歳遣船が派遣されていたと見られる(表3参照)。しかし1510年に起きた三浦の乱によりこうした状態は終わる。朝鮮王朝は元より貿易に対し抑制的であったが、15世紀末にはより強硬な貿易抑制政策を取るようになっていた。1488年、朝鮮王朝は綿布の交換レートの引き上げを行い、1494年および1498年に日本の輸出品の主力であった金・朱紅・銅の公貿易を禁止し、貿易拡大を願う宗氏と軋轢を引き起こした。耐えかねた宗氏は1510年に三浦の乱を起こすが敗れ、日朝の国交は断絶となり貿易は一時途絶える。 詳細は「三浦の乱」を参照
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