嘉吉条約から三浦の乱までとは? わかりやすく解説

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嘉吉条約から三浦の乱まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)

偽使」の記事における「嘉吉条約から三浦の乱まで」の解説

15世紀前半において、宗氏朝鮮王朝進め通交統制政策協力する中で朝鮮通交掌握し家臣団再分配することで領国支配進めていた。しかし1443年嘉吉条約締結され通交年間50隻に抑えられたことから宗氏朝鮮王朝蜜月関係終り宗氏偽使をもって通交拡大を図ることになる。 1452年朝鮮王朝協力的であった貞盛没し成職が跡を継ぐと、1453年より深処倭名義の通交急増し1455年には朝鮮訪れた使送倭人は6千人超える嘉吉条約により対馬諸勢力通交歳遣船制約にあったが、深処倭には歳遣船定約なされていなかったのである1455年朝鮮王朝通交頻度急増した深処倭10名の名を挙げ彼等歳遣船定約結ばせるよう宗氏要請した彼等通交頻度それまで多くても年2回程度であった1453年から急増し、多い者は年10回も通交していたのである翌年この10名の通交歳遣船定約化されこれを契機として1450年代に残る全ての深処倭について歳遣船定約結ばれることになる。以下に伊集院煕久田平弘・塩津留聞名義通交事例に細述するが、この急増した深処倭名義の通交宗氏派遣した偽使よるものであった伊集院煕久名義通交 : 伊集院煕久島津氏一族薩摩伊集院領主であった伊集院氏初め朝鮮通交したのは、1395年、煕久の父頼久の代のことである。煕久の通交1436年始まり通常1・2程度頻度続けられた。1450年伊集院煕久島津本家の忠国に攻められ所領失い肥後逃亡し以降行方不明となるが、その後も煕久名義通交続き1453年から急増する朝鮮王朝から通交頻度増加指摘受けた翌年に煕久名義通交歳遣船定約化されその後1510年三浦の乱まで継続するが、伊集院氏使送船の乗組員三浦の乱参加したことから通交禁止され以後復活することは無かった伊集院煕久名義通交は、所領失い行方不明となった者が大規模な資本を必要とする通交続けている点、1510年まで74年図書更新がされなかった点、など不自然な点が多く、これらは照久本人によるものではなく第三者、それも三浦の乱主導した宗氏よるもの見られている。宗氏名義詐称偽使により、伊集院氏名義という既存通交入手したのである田平名義通交 : 田平名義通交1454年始まり同年既に年6回の通交行っている。田平氏は1400年より朝鮮通交行っており、田平弘も1436年下松平戸一揆契約状に署名確認される実在人物である。しかし、宗家旧蔵図書木印群に田平名義木印木製偽造印章)が含まれていたこと、その木印図書模したではなく通交入手するための最初朝鮮通交時に使用するために造られ私印であったことから、田平名義通交1454年最初のものから宗氏による偽使であった考えられている。つまり宗氏既存通交入手したではなく名義詐称偽使により新な通交創出しのである塩津留聞名義通交 : 塩津留聞は壱岐本拠としていた松浦党一員である。塩津留氏は1444年から定期的に朝鮮通交し、一族の中で通交名義を3名確保するなど朝鮮通交力を入れていた。塩津留氏は1472年松浦党一人波多泰に攻められ壱岐追われ対馬逃亡し宗氏被官となり、その後文禄の役まで朝鮮通交続けている。1453〜55年通交にどの程度塩津留聞本人関与があったのかは不明であるが、塩津留氏側にこの時期通交急増させるような要因見当たらず、この時期通交大半宗氏塩津留氏から名義借り受けて行ったものと見られている。後年のことになるが、対馬亡命後1474年塩津留氏は宗氏から文引1回発給を受けることを約束されている塩津留氏は年2隻の歳遣船定約であったことから、残り1回通交宗氏塩津留氏から借受け行使したとみられている。三浦の乱後に塩津氏名義の歳遣船が年1隻に削減される塩津留氏は宗氏交互に2年1回隔年通交行った。その他、塩津留氏は壱岐牧山氏から通交譲り受け牧山氏名義の偽使通交行っていた。牧山氏は名義料という形で一定の権利留保していたものの、通交運用には一切関わっておらず、実質的に通交譲渡したものとされている。これらの塩津留聞名義通交は、名義型・名譲渡偽使通交に当たる。 表3 宗氏掌握通交推移年代島主歳遣船自己名義偽使通交合計歳遣船職人歳遣船職人1443年嘉吉条約50 0 0 0 0 50 1480〜1500年代 50 32 14 (49) 0 (145) 1512年壬申約条25 0 0 0 0 25 1530年代 30 0 0 13 16 59 1550〜60年代 30 3 1 43 26 103 1570〜80年代 30 0 1 49 38 118 1609年己酉約条20 1 1 0 0 22 この表は荒木和憲 (2007, p. 275)に拠るこのように宗氏偽使用いた新たな通交創出既存通交乗っ取り名義借り名義譲渡などの手段を駆使し通交集積進めた朝鮮王朝1450年代に深処倭全ての歳遣船化を進めたが、この歳遣船化の流れの中で宗氏は残る深処倭名義の通交掌握していったと見られている。それというのも朝鮮王朝歳遣船化の交渉宗氏委ねていたこと、文引制により受図書人・受職人通交であれ宗氏統制にあったこと、元々深処倭の通交頻度は年1隻程度であり、歳遣船定約によって年2隻の通交認められると1隻分宗氏貸与する余裕生じたからである。17世紀末に編纂された『系図外聞書記』に貞国が通交買い求めたとする伝承残されていることから、通交対馬集中は成職・貞国の代に進んだとみられる三浦の乱の起こる1510年頃には深処倭名義の歳遣船は年49であったが、偽使通交集積進んだことによりその大半宗氏派遣する偽使だったと推測されている。 また1455年から偽王城大臣使の通交が始まる。王城大臣使とは、畠山氏細川氏斯波氏等の室町幕府在京有力守護使節のことを指し朝鮮王朝日本国王使に次ぐ存在として図書による査証通交回数制限設けない等の優遇与えていた。真の王城大臣使の通交は、1409年斯波義将国王代理として通交したもの1431年斯波義淳通交したものの計2回に過ぎないその後1455年から69年までに王城大臣使は計19通交するが、これらはみな宗氏派遣した偽使であった偽王城大臣使の派遣きっかけは、1454年より始まり応仁・文明の乱契機ともなった畠山氏家督争いである。偽使勢力にとり、真使通交によりそれまで偽使通交露見することは避けるべきことであり、名義騙る相手家督争い騒乱忙殺されていることは好都合であったのである宗氏による偽王城大臣使通交では、博多商人の偽日本国王使通交と同様、外交僧が重要な役割果たした1450年代宗氏外交僧を務めたのは梅林寺初代であったが、1463年からその地位は仰之梵高(きょうしぼんこう)が務めていた。仰之梵高は天竜寺妙智院系の五山僧であったが、1463年日本国王使の副使として朝鮮通交し、その帰路請われ対馬止まり宗氏協力して偽使通交体制築いていった。この1463年通交した日本国王使は室町幕府派遣した真使であるが、対馬から偽王城大臣使が同行し国書にも同行者として偽王城大臣使の名が書き加えられていた。宗氏は仰之梵高を得ることで高度な外交文書作成能力手に入れ、また北九州禅宗幻住派ネットワーク結びつき偽使派遣体制整えていった。 一方博多商人琉球国王使の請負通交を行うようになっていた。明朝海禁政策敷いて以降宋・元代東シナ海海域活発に活動していた中国人海商活動封じられ、代わって中継貿易行ったのが琉球王国であった明朝琉球王国1年1貢と有利な通交認め明朝と各冊封国間の中継貿易任せていたのである [高良倉吉199381頁]。こうした状況背景に琉朝通交琉球朝鮮間の通交)は琉球側が三山統一以前朝鮮側高麗王朝期にあたる1389年から続いていた。しかし15世紀半ばになると、倭寇リスク避けるため、琉朝通交博多対馬商人国書進物預かり代わりに通交を行う請負通交へと姿を変えていた。こうした中、博多商人道安1453年琉球国王使として請負通交行い1455年には名義詐称型の偽琉球国王使の通交にも成功する。さらに1457年再度琉球国王使の請負通交を行うが、帰路対馬宗氏贈答品奪われ以後琉朝通交から締め出される当時宗氏文引制を以って全ての朝鮮通交自身統制下に置こうとしており、博多商人展開する日本国王使や琉球国王使の請負偽使通交は、宗氏統制効かないところで繰り広げられる目障りな活動であった宗氏朝鮮通交における主導権確保するため博多商人掣肘加えたのである。この事件博多商人にとり、安定的な朝鮮通交を行うためには宗氏との提携必要不可欠であることを示すものであった。 深処倭名義の偽使偽王城大臣使、偽琉球国王使などは恒常的な偽使通交目指したものであるが、1467年から1470年にかけて一回限り単発的偽使大量に発生する7代朝鮮国王世祖端宗から王位簒奪して即位した人物であったが、王権強化のため日本から祝賀使の迎え入れ図っていた。世祖仏教的奇瑞が度々表れた称し室町幕府祝賀使の派遣要請する1467年肥前那久野(名護屋藤原頼永使送として通交した寿は、室町幕府祝賀使派遣要請する書契託され京に上ることになる。この寿出立後から、仏教的奇瑞を祝うとして海浜小領主達の派遣する無数の祝賀使が出現するが、これらは宗氏派遣した偽使であった。これらの偽祝賀使通交は、まず朝鮮王朝瑞祥伝え聞いた称する祝賀使群が表れる当初はこれを受け入れていた朝鮮王朝祝賀使通交制限転じると、残り祝賀使達は貞国の請状を受けることで通交強行したその後宗氏仕立て上げた日本国王使及びその護衛称する無数の使節通交する。これらの使節は、 海賊大将海辺領主など、倭寇対策力を入れていた朝鮮王朝無視出来ない勢力名名乗っていたこと。 既存通交者の名が見当たらないこと。特に対馬から通交する者が皆無で、遠隔地の者が多いことが逆に不審である点。 通交名義人多く架空のもの物故者であったこと。 などから、宗氏創出し偽使であると見られている。 15世紀後半になるまで、博多商人宗氏の関係は安定せず博多商人偽使通交宗氏から妨害受けてきた。しかしこうした関係は宗貞国博多進駐によって転換期を迎える宗氏主家である少弐氏は、室町期において大内氏との度重なる抗争の中衰退し幾度となく筑前本拠追われ対馬亡命していた。特に1441年には領地ことごとく喪失し44年には宗氏もまた北九州から駆逐されていた。少弐氏宗氏動員して筑前回復の兵を起こすが、成功を収めることはな対馬寄寓するままであった。しかし応仁・文明の乱において大内氏山名氏組すると、足利義政少弐氏宗氏懐柔して大内氏牽制図った1469年、貞国は義政応じ少弐頼忠奉じて筑前出陣し大宰府回復する。この筑前出兵宗氏にとっても大きな意味を持ちそれまで最重要視してきた朝鮮通交においても一時期歳遣船が完全に途絶えるほど力を注ぐものであった。しかし筑前出兵中に貞国と頼忠が不仲になったことから、貞国は1471年対馬帰島してしまう。海東諸国紀拠ると両者不和原因は頼忠が肥前千葉氏内訌介入し強いて貞国に出兵させた結果大雪のため大敗喫したことにあるとされている。貞国帰島後も宗氏軍勢一部北九州残留させていたが、大内政弘が貞国抱き込み図ったことにより宗氏少弐氏の関係は終わる。1477年応仁・文明の乱終結を受け、政弘は本国帰国し少弐氏対決するが、政弘は貞国と頼忠の不和聞き知り幕府通じて貞国の抱き込み行ったのであるその結果78年に政弘が攻勢をかけた際も貞国は頼忠に援軍を送らず、頼忠は敗れ肥前逃亡し少弐氏宗氏断絶決定的となる。宗氏はこれをきっかけ大内氏友好的な関係を築き上げ、後の大内氏協力による偽日本国王使の派遣へと繋がることになる。この貞国の博多出兵は、宗氏博多商人提携偽使通交分裂宗氏大内氏接近、といった影響を残すことになる。 筑前出兵最中貞国は博多近辺駐屯しており、その間宗氏博多商人提携なされた [橋本雄2005159165頁]。宗氏緊密な関係を築いた博多商人偽王城大臣使通交参加許され1470年から74年までの短期間合計15回と大量偽王城大臣使を派遣し朝鮮遣使ブーム」と呼ばれている。「朝鮮遣使ブーム」は、 莫大な資本を必要とする通交短期間大量に行ったこと 当該期に宗氏博多出兵影響歳遣船すら途絶しており、こうした大規模通交を行う余力はないと推測されること それまで偽王城大臣使は実在人物の名義使っていたのに対し、「朝鮮遣使ブーム」における王城大臣使は完全に架空名義名乗っていること 偽王城大臣使使送博多商人名を連ねていること などから博多商人主導行われたものと推測されている。またそれ以外にも、宗金の孫宗茂信は貞国の協力によって受職人となった他、宗氏名義通交博多商人請負うなど、博多商人宗氏密接な関係を築いていった [伊藤幸司2005134頁]。さらに、宗氏との関係が安定したことを受け、博多商人は琉朝通交においても大胆な活動展開する1471年琉球国王使の請負通交として朝鮮渡航した博多商人平左衛門尉信重は、朝鮮王朝割印制の導入提案する。『歴代宝案』に残され琉球王朝側の記録には割印制について記載されておらず、これは博多商人国書改竄し盛り込んだものであった先述のように琉朝通交は既に博多商人対馬商人による請負通交によって行われておりその中に名義詐称偽使紛れ込んでいたが、割印はこうした偽使通交をさらに容易ならしめるものであった。また琉朝貿易には対馬博多商人の他に薩摩商人参入図っており博多商人の中も一枚岩ではなかったが、割印はこうした偽使勢力内部争いについても主導権約束するものとなった割印導入後20年博多商人安定した偽使通交続けるが、1492年彼等何らかの理由割印喪失し博多商人による偽琉球国王使の通交は終わる。 貞国博多駐屯時、当主対馬離れたことで偽使通交分裂見られた。貞国の筑前出兵中は守護代である宗盛直・宗職盛父子文引発行掌握していたが、彼等、あるいはその後援を受けた対馬残留組何者かが九州出兵組の持つ偽使通交乗っ取り、「偽使偽使」を派遣したのである通交分裂は、菊池氏呼子氏、神田氏名義の通交確認されている。ここでは菊池氏事例偽使通交分裂の細述を行う。菊池氏名義通交肥後太守名乗ったものと肥後筑後二州太守名乗ったものの2組存在し両者とも宗氏による偽使通交であった考えられている。そのうち通交分裂確認されたのは肥筑二州太守名義通交である。1468年菊池為邦使送朝鮮通交した際、「為邦」と彫られ図書受給する。しかし70年通交した菊池氏使送は、68年受けた図書紛失したとし新たな図書請願した朝鮮王朝が「菊池為邦」と彫られた新図書発給したところ数年間新図書用いた通交続いた。しかし74年に為邦の子重朝の使送名乗る者が表れ、「68年に為邦が死亡し図書受けた重朝は上洛していて通交出来なかった。帰国したところ父の名騙って通交している者が居ることを知った。」として図書の改給を請願し紛失したとされてきた「為邦」図書提出したこうした最中に「菊池為邦図書使用した菊池氏使送漢城現れたため、漢城偽使同士対決することになる。朝鮮王朝は「遠くのことは見極め難い」と宗氏解決委ね結局重朝名義通交認められることになる。これは菊池為邦名義通交所有者九州出兵中、対馬残留組のうちの何者かが通交行使しようと「偽使偽使」を派遣していたものである。「偽使偽使」を派遣していたのが何者なのか不明であるが、朝鮮通交には必ず文引が必要であったことから、貞国離島中に文引発給掌握していた盛直・職盛父子関与少なくとも黙認があったものと考えられる文引発給偽使通交分裂は貞国帰国後もすぐには納まらなかったが、次第文引発給は貞国の元に回収され通交分裂解消したまた、1470年代には大内氏関係の偽使疑い持たれる使者存在確認される1465年大内教弘没して子の政弘が後を継いだが、2年後発生した応仁の乱では西軍一員として上洛していたために、家督継承後に初め使者派遣したのは1479年のことであったが、この時までに大内氏名義使者が既に3度朝鮮派遣されていた(『成宗実録』四年8月戊辰条・五年7月庚辰条・九年正己卯条)。これを知った政弘の使者はそれらは貴国から与えられた印のない偽使であると述べた。ただし、これを直ち偽使であると断定できないのは、当時大内氏家督巡っては教弘の兄である大内教幸(道頓)が家督主張して教弘・政弘父子抗争をしており、特に応仁の乱当時には東軍によって教幸が大内氏当主に任ぜられて重臣たちも両派に分裂していた経緯があるためである。つまり、この時期使者が全くの偽使であった可能性否定できないものの、東軍方によって大内氏当主とされた大内教幸派遣した使者正統性西軍方につき最終的な家督争い勝者となった政弘が否認したに過ぎない可能性もあるからである。 一方1470年代偽王城大臣使の大量通交を受け、朝鮮王朝室町幕府1482年牙符制導入する牙符制とは象牙製の半割にした割符をもって使節査証を行う制度であり、王城大臣使と日本国王使に適用された。宗氏博多商人牙符制の壁を打ち崩すことが出来ず偽王城大臣使の通交一時途絶えることになる。しかし後に明応の政変によって牙符大内氏大友氏元へ流出し宗氏大内氏大友氏緊密な関係を築くことで偽日本国王使・偽王城大臣使を派遣することになる。 詳細は「牙符制」を参照 宗氏掌握する通交1443年嘉吉条約締結時には年間50隻に過ぎなかったが、偽使通交集積進められ結果15世紀末には毎年100隻を超す歳遣船派遣されていたと見られる表3参照)。しかし1510年起きた三浦の乱によりこうした状態は終わる。朝鮮王朝元より貿易対し抑制的であったが、15世紀末にはより強硬な貿易抑制政策を取るようになっていた。1488年朝鮮王朝綿布交換レート引き上げ行い1494年および1498年日本輸出品主力であった金・朱紅・の公貿易禁止し貿易拡大を願う宗氏軋轢引き起こした。耐えかねた宗氏1510年三浦の乱起こす敗れ日朝国交断絶となり貿易一時途絶える詳細は「三浦の乱」を参照

※この「嘉吉条約から三浦の乱まで」の解説は、「偽使」の解説の一部です。
「嘉吉条約から三浦の乱まで」を含む「偽使」の記事については、「偽使」の概要を参照ください。

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