嘉吉の変から隠居までとは? わかりやすく解説

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嘉吉の変から隠居まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:08 UTC 版)

山名宗全」の記事における「嘉吉の変から隠居まで」の解説

嘉吉元年1441年6月24日足利義教と共に播磨備前美作守護赤松満祐屋敷訪問したが、満祐が義教殺害する抵抗せず脱出し領国播磨挙兵した満祐を討つため、7月28日侍所頭人解かれた後は同族山名教清山名教之嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨侵攻。満祐の城山城陥落させて鎮圧貢献し赤松氏領国加えて播磨獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見美作、教之は伯耆備前領有)、山名熙高因幡合わせて10国の守護職を回復して権勢得た嘉吉の乱)。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨送り込み同国内の所領横領するなど、幕命無視する行動続けており、公家万里小路時房は持豊が守護任じられれば「一国滅亡」になると嘆いている。 嘉吉2年1442年)に出家して宗峯と号し長禄年間に宗全と改めた。 東播磨明石郡美嚢郡加東郡3郡は満祐の従弟赤松満政代官になっていたが、幕府申し出て文安元年1444年)にこの3郡も領有した同年10月に不満を抱いた満政が播磨下向したが、翌年1445年1月から4月にかけて満政を討伐、東播磨実力領有した。しかし、この後赤松氏領国奪還運動続いていくこととなる。 嘉吉3年1443年)には嘉吉の乱殺され山名熙貴の娘を猶子迎えて大内教弘に嫁がせ、文安4年1447年)には同じく熙貴の娘を幕府管領細川勝元に嫁がせて、大内氏細川氏縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国対抗した結果享徳3年1454年)にお家騒動足元揺らいだ持国失脚させることに成功勝元と共に幕政頂点立った享徳3年1454年11月2日赤松氏出仕巡り8代将軍足利義政対立、宗全退治命じられ諸大名軍勢京都集結したが、細川勝元取り成しで宗全退治中止され、宗全は家督守護職嫡男の教豊に譲り但馬下国同年赤松満祐の甥則尚が播磨挙兵して、教豊の子で宗全の孫に当たる山名政豊攻撃した。宗全は但馬から出兵して則尚軍を破り、則尚を自害追い込んだ結局但馬4年過ごし長禄2年1458年)に赦免されて再び上洛幕政復帰した寛正元年1460年)に教豊と対立して教豊が播磨逃れる事件発生程なく和解している。寛正3年1462年)に次男の是豊が備後安芸守護に任命寛正5年1464年)に山城守護も兼ねたが、勝元引き立てがあったとされる。元々、明徳の乱厳罰受けた山名氏応永の乱功績備後安芸石見与えられたのは大内氏牽制させる意図であったのに、山名氏大内氏と結ぶことはその戦略大きく狂わせるものであったから、この動き対抗するために宗全と是豊父子の関係に打とう考えたとみられる三管領家畠山氏家督争いでは、勝元畠山政長支持するに対して畠山義就支持斯波氏家督争いでは、斯波義敏支持する勝元対し斯波義廉支持幕政巡り婿である勝元対立するようになった斯波義廉のみならず大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶべき諸大名次第に宗全と関係を深め、宗全は彼らの盟主存在(「大名頭」)へとなっていった。

※この「嘉吉の変から隠居まで」の解説は、「山名宗全」の解説の一部です。
「嘉吉の変から隠居まで」を含む「山名宗全」の記事については、「山名宗全」の概要を参照ください。

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