嘉吉の変から隠居まで
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嘉吉元年(1441年)6月24日に足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出し、領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、7月28日に侍所頭人を解かれた後は同族の山名教清・山名教之や嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の城山城を陥落させて鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は伯耆・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た(嘉吉の乱)。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」になると嘆いている。 嘉吉2年(1442年)に出家して宗峯と号し、長禄年間に宗全と改めた。 東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出て文安元年(1444年)にこの3郡も領有した。同年10月に不満を抱いた満政が播磨へ下向したが、翌年(1445年)1月から4月にかけて満政を討伐、東播磨を実力で領有した。しかし、この後に赤松氏の領国奪還運動が続いていくこととなる。 嘉吉3年(1443年)には嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせ、文安4年(1447年)には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗した。結果、享徳3年(1454年)にお家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功、勝元と共に幕政の頂点に立った。 享徳3年(1454年)11月2日に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、宗全退治を命じられた諸大名の軍勢が京都に集結したが、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止され、宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り、但馬へ下国。同年、赤松満祐の甥則尚が播磨で挙兵して、教豊の子で宗全の孫に当たる山名政豊を攻撃した。宗全は但馬から出兵して則尚軍を破り、則尚を自害に追い込んだ。結局、但馬で4年間過ごし長禄2年(1458年)に赦免されて再び上洛、幕政に復帰した。 寛正元年(1460年)に教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生、程なく和解している。寛正3年(1462年)に次男の是豊が備後・安芸守護に任命、寛正5年(1464年)に山城守護も兼ねたが、勝元の引き立てがあったとされる。元々、明徳の乱で厳罰を受けた山名氏が応永の乱の功績で備後や安芸、石見が与えられたのは大内氏を牽制させる意図であったのに、山名氏が大内氏と結ぶことはその戦略を大きく狂わせるものであったから、この動きに対抗するために宗全と是豊父子の関係に楔を打とうと考えたとみられる。三管領家の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持、幕政を巡り婿である勝元と対立するようになった。斯波義廉のみならず、大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶべき諸大名は次第に宗全と関係を深め、宗全は彼らの盟主的存在(「大名頭」)へとなっていった。
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