朝鮮王朝建国までの道程とは? わかりやすく解説

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朝鮮王朝建国までの道程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:44 UTC 版)

李成桂」の記事における「朝鮮王朝建国までの道程」の解説

高麗帰順する以前李成桂行跡については、残っている記録ほとんどない。『李朝実録総序』は、若い頃李成桂神弓に近い弓術披露したり、勇猛北方野人から畏敬されたという伝説的な話が断片的に伝えている。1356年高麗恭愍王は反元政策を掲げ元に奪われていた領土の収復を推進した領土奪還のためには全州李氏一族協力が必要であった李成桂の父で、当時元朝の斡東千戸千戸地位にあった李子春恭愍王政策進んで協力した恭愍王双城総管府攻撃直前に、李子春開京呼んで府尹という高位官職与えた東北面兵馬使率い高麗軍双城攻撃すると、李子春内部から呼応して高麗軍と共に戦い双城容易に陥落させた。この功により李子春は従二品の位を授かり東北面兵馬使に任じられ全州李氏一族高麗復帰した双城陥落から4年後の1360年李子春朔方道万戸兵馬使に任命されたが、その直後46歳亡くなった。既に彼の息子である李成桂武将となっており、翌年には儀の反乱鎮圧して功を立てている。また、この年李成桂二つ大きな戦い経験している。一つ目紅巾軍侵入である。1361年10万紅巾軍が南侵して首都開京占領した首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗り果たした。この戦いその後李成桂台頭始まりとなった二つ目は元軍との戦いである。双城奪還のために侵攻してきた元の大軍咸興平野殲滅し、ここでも勇名高めた当時中国遼東地方では、元の権威弱まったことに乗じて、元の納哈出(ナガチュが行丞相自称して強大な勢力をもっていた。納哈出は遼東支配下に置くと、自ら軍勢率いて高麗侵入し瞬く間西北部攻略して三撒(咸鏡南道北青郡)・忽面(咸鏡南道洪原郡)にまで迫った1362年2月李成桂東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった。同年7月遼東で兵を補った納哈出は再び高麗侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入断念させた。1363年、元は高麗態度不遜だとし、反元の恭愍王廃し恭愍王叔父である徳興君王譓を王位に就かせようとしたが、高麗断固としてこの要求拒んだ1364年、元は高麗反逆者崔儒に元兵1万授けて高麗侵攻させたが、李成桂崔瑩と共に国境近くでこれを殲滅した。この敗北により元は恭愍王復位容認して崔儒を高麗送還し高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した。そして同年2月遼東から大軍侵入して和州咸鏡南道金野郡以北占領していた女真族李成桂討伐して領土奪還したこの女討伐戦時に文官として従軍したのが、親友ありながら後に李成桂対立した鄭夢周である。李成桂1370年には東北面元帥として東寧府攻めさらには元の遼陽までも制圧した南方の対倭寇戦では、1377年智異山倭寇殲滅したことによって名声確固たるものにし、同年8月にも西海道黄海道一帯倭寇大破していた。そして1380年倭寇500から成る軍勢侵入しその中で最も強力な倭寇集団峰(全羅北道南原市)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥攻撃させたが敗北して二人元帥死んだ。この事態受けて李成桂総指揮官に任命され首領阿只抜都率い倭寇を引月駅に進撃してこれを破った荒山戦闘)。 一連の戦いで名声得た李成桂のもとには、新興官僚地方豪族集まっていくことになる。1388年、明が高麗領である鉄嶺以北割譲一方的に通告してきたため、高麗の第32代国王禑崔瑩遼東地域支配下に置くことで明の圧力退けようと計画した李成桂右軍都総使に任じられ前線指揮担った李成桂四つ不可論を理由出兵反対していたが、王禑崔瑩意見従い反対論無視し遠征開始した。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力李成桂武人勢力を削るという目的があった。王禑遠征軍勝利興味がないと公言し出征の日に激励の言葉一つもかけなかった。また、反乱備えて遠征する武将らの家族王宮来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした。 1388年5月遠征軍鴨緑江河口威化島到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧補給難しくなっていた。このような状況理由李成桂撤退要求したが、これも認められなかったため、李成桂独自に撤退開始した威化島回軍)。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂助けるべく馳せ参じた。また民衆も回軍を歓迎し李成桂希望を持つ歌が流行った一方高麗朝廷は既に民から見放されており、回軍の報せ受けた崔瑩抵抗軍組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった。 6月1日開京着いた李成桂は、王禑遠征責任問い崔瑩処罰要求した。しかし、王禑李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞与えるという触書を出したため、李成桂交渉諦めて王宮攻め崔瑩捕虜とした。崔瑩処刑されずに遠方流され(二か月後に処刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、権力失い名ばかりのものとなった王禑王権取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され、子の王昌曹敏修らに擁立されて王位就いた。 しかし、李成桂らに擁立された恭譲王1389年王位奪われ王昌王禑処刑された。恭譲王朝鮮王朝樹立2年後1394年には李成桂命令処刑された(李成桂自身王氏一族内地復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)。このとき李成桂により王氏高麗王家一族皆殺し行なわれた。即位の後3年王氏一族巨済島などの島々集めて監視し1394年4月一斉に海に投げたり斬殺したりして王氏虐殺した。元々王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に戻るよう命じられた。王氏一族一部は姓を変えて隠れることができたが、文宗により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族多く復姓しなかったとされる文宗時になって隣人密告捕まった王氏許され一族継いだが、韓国統計庁2000年行なった本貫調査によると開城王氏人口2.0万人極端に少なかった高麗王家では日本武家同様、後継者危害及ばぬように後継者以外の王子出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の数は元々少なかった上、このときの皆殺し王氏の数が激減したことも原因とされる政治実権握った李成桂鄭道伝趙浚らは親元的な特権階級権力結びつき腐敗した仏教勢力私有地拡大したために国庫尽きている現状痛烈に批判し1390年から田制改革強行した

※この「朝鮮王朝建国までの道程」の解説は、「李成桂」の解説の一部です。
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