朝鮮神宮御祭神論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 17:15 UTC 版)
朝鮮神宮の鎮座直前に、今泉定助・葦津耕次郎・賀茂百樹(賀茂真淵末裔)・肥田景之(神職、実業家、衆議院議員)ら神社関係有力者や、後1938年に「海外神社協会」を組織する小笠原省三等が「朝鮮神宮には朝鮮国土の神を祀るべし」と主張し、1919年に政府が発表していた「祭神を天照大神・明治天皇とする」方針の再考を求め、政府・総督府と神社人の間で論争となった。小笠原は『朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察』『朝鮮神宮を拝して内鮮両民族の将来に及ぶ』を著して、神道は古来よりその土地の神や偉人を祀り、その土地の様式を入れた神社を建てており、天照大神は伊勢神宮とその系列のものであるから、朝鮮神宮には朝鮮の偉人を祀り、朝鮮の様式を主とした社殿を建築すべきであり、神職には朝鮮名家の由緒正しき人を任ずべし」と主張した。神社人の間では檀君奉斎論が起こり、檀君を「朝鮮国魂神」として奉斎する主張へと発展したが、神社人の主張は受け容れられなかった。神社新報社は「海外の新領土に天照大神を祀るのはヨーロッパ諸国がアジアの植民地にキリスト教を伴ったのに似ているが、日本の思想にはないものであり、神道の思想の変質である」と断じた。
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