朝鮮総督府での運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:28 UTC 版)
1910年(明治43年)に韓国併合が行われ、同年10月に朝鮮総督府の新官制が施行されると、本船は「光済丸」として朝鮮総督府通信局(1912年以降は朝鮮総督府逓信局)の所属となった。そして、灯台等の航路標識視察や税関監視任務、海軍艦船や官庁用の無線通信業務に引き続き従事した。1911年度(明治44年度)の運用実績は、航海距離14,902海里(約27,599km)に及んだ。同任務で最後の運用となった1924年度(大正13年度)の航海距離は、7,119海里(約13,184km)と減っている。 1925年(大正14年)に財政上の事情による行政整理のため、「光済丸」の灯台見回り船・税関監視船など公船としての任務は全て廃止となった。そして、朝鮮総督府所属のまま朝鮮郵船株式会社に貸し出された。朝鮮郵船では、「光済丸」を貨客船「咸鏡丸」と交代させ、「平壌丸」とともに元山=清津線(城津経由)へ就航させた。同航路は朝鮮総督府の命令航路として1922年(大正11年)に開設されたもので、鉄道未開通の咸鏡北道・間島方面に就航する唯一の旅客航路であり、同方面を京釜線・京元線・京義線とつなぐ鉄道連絡船として非常に賑わっていた。しかし、同航路は1928年(昭和3年)8月の咸鏡本線開通によって不要となり、翌月に廃止された。
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