朝鮮競馬令発布後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 07:45 UTC 版)
「朝鮮の競馬」の記事における「朝鮮競馬令発布後の状況」の解説
朝鮮競馬令発布によって公認競馬場以外で馬券を売る競馬の開催はできなくなり、従来の京城、平壌、釜山、新義州、群山、大邱の各競馬団体を統括・調整する上位組織として社団法人朝鮮競馬協会が設立された。1937年には朝鮮馬政計画が実施され、それに伴って咸興、清津、雄基の3か所の競馬場が公認され朝鮮の競馬場は9か所になる 。 朝鮮競馬令発布後の朝鮮競馬は順調に発展し、1939年(昭和14年)京城秋の1場所で238万円の売り上げがあり、1939年平壌の秋場所も45万円売上。太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)には春シーズン全開催で790万円売上と春シーズンだけで1930年1年間の5倍近い売り上げをあげるようになっている。馬は内地産馬の移入が続き、1941年(昭和16年)春にも定例購入の抽籤用新馬135頭が内地から届いている。内容はアラブ系90頭、サラ系45頭でアラブ系が主流となっている。
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