日韓協約とは? わかりやすく解説

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にっかん‐きょうやく〔‐ケフヤク〕【日韓協約】

読み方:にっかんきょうやく

日露戦争から韓国併合まで、日本朝鮮支配推進するために、三次わたって締結した協約。(第一次明治37年19048月韓国日本政府推薦外交財政顧問採用することなどを決めた協約。(第二次)同38年11月日本韓国外交権握り統監がそれを統轄することを規定した協約で、保護条約ともいう。(第三次)同40年7月司法・警察権を含む内政統監の下に置くことを決めた協約


日韓協約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/01 14:54 UTC 版)

日韓協約(にっかんきょうやく)とは、日露戦争から韓国併合にいたる1904年1907年の間に、日本大韓帝国李氏朝鮮、韓国)との間で締結された3つの条約の総称。

これらの条約により日本は韓国を事実上の保護国とし、1910年の韓国併合へ進んでいくことになる。現在、大韓民国においては日本の圧力の下で調印された条約であり、そもそも無効であるという主張が強くなっている。

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日韓協約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:49 UTC 版)

林権助」の記事における「日韓協約」の解説

明治33年1900年)に権助は駐韓公使任命されるここにおいて彼は対韓・対露強硬外交推進してその後日韓併合への足がかり作ったことで知られている。すなわち、日露戦争中には韓国政府迫って日韓議定書調印させ、続く第一次日韓協約第二次日韓協約はともに彼の主導の下に締結された。これによって韓国日本保護下に置かれることになったのである。その功績により、明治40年1907年11月4日男爵叙せられた。そして、明治43年1910年)に日韓併合実現されると、彼は桂太郎小村寿太郎とともに併合の「三人男」と評価された。なお、この間明治39年1906年)には駐清公使明治41年1908年)には駐伊大使に任ぜられている。 大正5年1916年)に権助は駐支公使に任ぜられ、特に親任官待遇賜った間島問題辰丸事件解決あたった他、鄭家屯事件においては日本軍過度な軍事介入反対する進言行い張勲復辟事件に際して段祺瑞張勲討伐秘かに支援することで、日本利益損なわない形での中国情勢安定化目指した。大正8年1919年)に関東長官任命されるが、翌大正9年1920年)には駐英大使に任ぜられた。更に大正10年1921年)にスイス開かれた国際連盟総会及び近東平和会議日本代表兼ねた

※この「日韓協約」の解説は、「林権助」の解説の一部です。
「日韓協約」を含む「林権助」の記事については、「林権助」の概要を参照ください。

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