日韓合邦運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:24 UTC 版)
日露戦争後、日本は韓国の保護国化を進め、伊藤博文を韓国統監として派遣した。杉山は伊藤に、渡韓に際し内田良平を同行するよう薦め、伊藤は内田を統監府嘱託に採用した。内田は韓国において、親日団体である一進会の李容九や宋秉畯と親交を結び、一進会の日韓合邦運動を支援した。杉山は日本国内にあって、内田からの情報を政府首脳に伝え、また内田や一進会からのさまざまな要請について政府との交渉窓口となった。杉山は一進会の懇請により顧問となっていた。一進会が目指したものは日韓が対等の立場で合併する「合邦」であったが、現実には韓国が日本に併合される結果となった。このため大正10年(1921年)、杉山は旧一進会の会員たちから自決を要求された。併合後の朝鮮に対する政府の施政の実情を憂慮した杉山は、大正12年(1923年)に総理大臣に宛てた『建白』を著し、朝鮮の施政改革を強く訴えた。
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