渡韓
渡韓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 20:05 UTC 版)
1948年、大韓民国の樹立で韓国で禹の呼び寄せ運動が起こった。当時の韓国は政治的大混乱や地方から都市への人口流入などの問題で食糧が不足、農家は種子、肥料などの不足で甚大な被害を受けていた。この頃、韓国は国民の80%が農業に従事していた。また日韓併合時代の韓国では米や麦など日本人の主食の増産に重点が置かれ、日本にとって重要性の無い大根や白菜などの蔬菜は放置されたため、韓国の人達にとって欠かせないキムチの材料をまともに作れない状況にあった。日本の植民地支配から解放された当時の韓国は、白菜、大根などの主要野菜の種子を膨大な外貨を使い、日本から輸入していた。 優良な種子が大量に無いと優良な野菜を大量に作ることは出来ない。このような状況下でタキイ種苗の同僚だった金鐘が「今の韓国に来て種子の問題を解決してくれる人は禹長春しかいない」と声を上げると、韓国政府・国民挙げての大きな運動となった。国母閔妃殺害で国賊の烙印を押された範善を父に持ち、日本生まれの禹は韓国語を話せなかったが1950年、韓国行きを決意、妻と子供を日本に残し、単身渡韓した。52歳の時だった。生まれ育った日本がしっくりきていたが、やりたい研究に思う存分打ち込め、それが父範善の国のためになればと考えたといわれる。渡韓を前に禹は父の墓参りのため、10数年ぶりに故郷・呉を訪問、母校三津田で講演も行った。
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