日韓国交正常化における文化財返還交渉
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「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」の記事における「日韓国交正常化における文化財返還交渉」の解説
当時の日韓会談における文化財返還の交渉の過程は以下の通りである。 1952年1月9日、日韓会談直前に日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された。 第1次会談(1952年2月15日-4月25日)1952年2月21日の第1回財産請求権委員会で韓国側が韓日財産及び請求権協定要綱で「韓国より運び来りたる古書籍、美術品、骨董品、その他国宝、地図原版及び地金と地銀を返還すること」と提示された。これについて韓国側は2月23日、「不自然な方法、奪取のごとき、韓国民の意思に反して搬出された」と規定した。 第2次会談(1953年4月15日-7月23日)で韓国は韓国国宝などの目録を提示し、日本は調査中と答弁した。 第3次会談(1953年10月6日-10月21日)1953年4-7月の非公式会談で広田アジア局第2課長は日本渡来の経緯に種々あり、古く渡来したものもあれば正当な価格で購入したものもあるので、これを網羅的にとりあげることは困難と答弁した。1953年10月の会談でも日本は「文化財の大部分は明治以前に正当な手段で日本に搬入された」と主張した。日本国内の議論では文部省が返還する義務がないとして反対した。 1953年10月15日の会談で、韓国側が、日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり本来なら韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺、韓国人の基本的人権の剥奪、食料の強制供出、労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っていると述べたところ、久保田貫一郎が日本は植林し、鉄道を敷設し、水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろうと反論し、また米国による日本人資産の接収は国際法に違反していないと考えるし、違反していたとしても米国への請求権は放棄したと回答した。久保田貫一郎が韓国側は「植民地支配は韓国に害だけを与えたと考えている」と指摘したところ、久保田妄言として韓国で批判された。朝日新聞は2013年6月15日記事で日韓交渉を決裂させた原因として非難した。当時、韓国は「久保田妄言」への報復として李承晩ラインを設定し、竹島を占領した。 第4次会談(1958年4月15日-1960年4月15日)1958年4月16日、日本は東京国立博物館の106点の文化財を韓国に返還したが、韓国側は資料的価値の低いものと評価して、韓国には歓迎されなかった。 1958年6月4日、日本は韓国側の気持に同情的であると述べたが、10月には全文化財の引渡は不可能とのべた。 第5次会談(1960年10月25日-1961年5月15日)では専門家会議がはじめて実施され、韓国の不法に持ち去られたという主張と日本の反論が繰り返された。日本側が正当な手段で入手したと主張すると、韓国側は「正当な取引であるとしても、その取引自体が植民地内でなさえた威圧的な取引であった」と答えた。 第6次会談(1961年10月20日-1964年10月4日) 第7次会談(1964年12月3日-1965年6月22日)
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