協約締結後の高宗皇帝
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「第二次日韓協約」の記事における「協約締結後の高宗皇帝」の解説
1905年11月18日に勒約が締結されると、皇帝はこれが「無効であること」をただちに明らかにするために、芝罘経由で11月26日に緊急電文をイギリスのハーバート・ヘンリー・アスキスに送った。その内容は「朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。」というものであった。第二次日韓協約の無効を訴えるイギリス宛親書後、高宗は第二次日韓協約締結の不当性を国際社会に訴えようと努力したが、当時の国際情勢によって皇帝の密書などは支持を得られなかった。高宗の第二次日韓協約無効を主張する書簡には1906年1月29日に作成された国書、1906年6月22日にハルバート特別委員に渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領アルマン・ファリエールに送った親書、1907年4月20日ハーグ密使李相卨への皇帝の委任状などがある。
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