協調と合併、1907年 - 1919年
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「シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道」の記事における「協調と合併、1907年 - 1919年」の解説
1890年にシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の最初の路線が6駅で開通して以来、地面深いところを走るチューブの路線網は拡大し、1907年までに7路線70駅以上になった。これらの会社は、地表に近いところを走る地下鉄のメトロポリタン鉄道およびメトロポリタン・ディストリクト鉄道も加わり、街路の下を縦横無尽に走り、お互いに、そして路面電車やバスと旅客獲得を巡って競争していた。場合によっては、開業前の旅客数の予測は楽観的に過ぎたこともあった。路線を利用する旅客が少なく、収入が見込みより減少すると、会社は借り入れた資本を返済し、あるいは株主に配当を支払うことが難しくなった。 こうした全体の状況を改善しようとして、地下鉄会社の大半となる、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道、セントラル・ロンドン鉄道、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道(英語版)、ロンドン地下電気鉄道(ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道、メトロポリタン・ディストリクト鉄道を運営)は、1907年から運賃協定を導入した。1908年からは、全体共通のブランド"UNDERGROUND"を導入した。幹線鉄道のロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道(英語版)が運営するウォータールー・アンド・シティ鉄道は、こうした協定に唯一参加しなかった。 新しく建設された鉄道が使っている、より大きくて近代的な車両が走れる大きなトンネル断面を採用するために、トンネルを拡大して容量を増強しようと、新たな法案を1912年に議会に提出した。同時にロンドン電気鉄道(1910年にロンドン地下電気鉄道が、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道を合併させて設立した会社)が、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道のユーストン駅からチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道のカムデン・タウンまでを結ぶトンネルを建設する法案を提出した。これらの法案に提案されていた工事を合わせると、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の列車がシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道に乗り入れられるようになり、実質的にこの2路線が統合されることになる。 1913年1月1日に、ロンドン電気鉄道はシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道を買収し、その財務状況を反映して割引となる、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の3株を自社の2株に交換した。どちらの法案も1913年8月15日に成立し、1913年シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道法、1913年ロンドン電気鉄道法となった。 提案された路線延長とトンネルの拡大工事は、第一次世界大戦によって遅れ、着工は大戦後のこととなった。
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