称号の由来
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「天皇」は、字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が中世までに連声により「てんのう」に変化したとされる。中国では秦の始皇帝が、秦の統一後に、皇帝と名乗る以前の大王時代に支配者の新しい名称を求めて例示された「天皇・地皇・泰皇」中に「天皇」号があるが泰皇を改定して「皇帝」号を創始した(『史記』始皇帝本紀)。この記事を参照して、第2回遣隋使国書「天子」使用で煬帝から無礼とされことから、天を含み王がない号として天皇号を選んだとの吉田孝の説がある。後に、中国の唐の高宗は 道教から「天皇」と称した。(上元元年(674年)8月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と為し、皇后を天后と為す」(巻8)とある。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。(681年)。中国ではこの時のみ天皇号が使われ、以後使われていない。 古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。 「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット「sume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語「sümer」(須弥山)と同源であろうとしている[要文献特定詳細情報]。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない。 万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が「オオキミ」、5例が「スメロキ」と訓ませている。それぞれの文意の比較から、「オオキミ」は今上天皇、「スメロキ」は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても「スメロキ」と訓ませているため、過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている。 日本では「天皇」という文字は、奈良の法隆寺金堂の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は推古天皇(在位592~628)の代であり製造は推古15年とされた。このことから、戦前に津田左右吉の推古天皇期という説が、過去には有力だった。しかし、戦後に、美術的な様式からも同じ金堂内の623年製造銘の釈迦三尊像より新しいと推定され、製造は後世であり、666年野中寺弥勒像銘が金石文では天皇号の確実な初見だとしている。推古8年(600年)第1次遣隋使では「オホキミ」号を使用し、推古天皇16年(607年)第2次遣隋使国書で「日出處天子致書」と日中とも「天子」として煬帝を怒らせ、それへの隋からの国書は皇帝が蕃夷の首長に下す形式である。それへの日本からの返書の国書に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀にあり、日本の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られるが、前回国書の対等書式とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる。ただし、「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある。考古学的には、 明日香村飛鳥池遺跡出土の天皇木簡が最も古く一緒に出土した木簡から天武朝( - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)の時期のものと判定されている。 「天皇」の語と関連した語がある古い記録文書・銘年代抜粋出典現存遣隋使国書 607年 日出處天子致書日沒處天子無恙 隋書(636年成立) 法隆寺金堂薬師如来像光背銘 607年 池辺大宮治天下天皇 法隆寺金堂薬師如来像 実物が存在。 隋への国書 608年 東天皇敬白西皇帝 日本書紀(720年成立) 日本書紀以外に記録がない。 法興寺丈六釈迦像光背銘 609年 多知波奈土與比天皇 元興寺伽藍縁起並流記資財帳(746年成立) 実物が失われている。 天皇記 620年 (書物の題名自体に「天皇」を含む) 日本書紀 実物がない。日本書紀以外に記録がない。 天寿国繡帳 7世紀 斯帰斯麻宮治天下天皇悲哀嘆息白畏天皇前日啓 上宮聖徳法王帝説(成立年不明) かろうじて現存。 野中寺弥勒菩薩像銘文 666年 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 野中寺弥勒菩薩像 実物が存在。 木簡 677年 天皇聚露忽謹 飛鳥池工房遺跡出土 天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物は、以下の通り。 唐の第3代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。 日本の第40代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。 南漢の初代皇帝劉龑は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。 天皇の称号を存命中に自ら付した、ないし付された人物は、以下の通り。 太平天国の洪秀全は、在位中に「太平天皇」を自称した。 日本の明治天皇、大正天皇、昭和天皇、明仁、徳仁は、大日本帝国憲法及び日本国憲法にしたがって自らに天皇の称号を付した。
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