大王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:00 UTC 版)
「クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン」の記事における「大王時代」の解説
1740年フリードリヒ大王が即位すると、シュヴェリーンは元帥となり、さらに伯爵の位を与えられた。シュヴェリーンは大王に高く評価されており、また軍中でも「小マールバラ」と呼ばれて尊敬されていた。当時のプロイセン軍において、シュヴェリーンは「老デッサウ人」レオポルト1世と肩を並べるほどの地位を有するようになっていた。 オーストリア継承戦争が始まるとき、シュヴェリーンは外務大臣のポデヴィルスとともに大王からシュレージエン侵攻の意図を最初に明かされ、その計画を練った。シュレージエンにおいては一軍を率いて大王軍の進路を右翼から守る役目を果たし、さらに大王がベルリンに一時帰還する際は全権をまかされ、春までに上シュレージエンの占領を行った。モルヴィッツの戦いではプロイセン軍はオーストリア軍の騎兵により一時苦戦に陥ったが、シュヴェリーンは大王を避難させたうえで軍を立て直し逆転勝利をもたらした。 しかし大王はこのとき、シュヴェリーンが戦場での指揮権を自分のものにするために大王に退避を勧めたのだと悪く捉え、かえってそのことでシュヴェリーンを不当に非難し、大王とシュヴェリーンの良好な関係は一時失われた。クラインシュネレンドルフの密約による休戦のあと、シュヴェリーンはナイセ総督に任じられるが、すぐメーレンに進出して攻略の前準備をすることを命ぜられ、オルミュッツを占領したうえで大王の到着を迎えた。しかし1742年のプロイセン軍のメーレンでの作戦は食料調達に失敗したことから打ち切りにせざるを得ず、シュヴェリーンはこの件でも大王に一方的に責任を負わされて非難された。シュヴェリーンは健康悪化を理由にナイセに帰り、コトゥジッツの戦いには参加しなかった。やがてポンメルンの領地に帰ってそこで健康の回復と勘気の解けるのを待った。 1744年第二次シュレージエン戦争が行われることになるとシュヴェリーンも呼び戻され、シュレージエンから一軍を率いて東からベーメンに侵攻し、その攻略に携わった。しかしこの戦役ではプロイセン軍は補給に苦しんで敗退することになり、シュヴェリーンは若デッサウと作戦方針を巡って激しい口論をして大王に仲裁されるほどであった。シュヴェリーンは自分の意見が用いられないのを不服とし、また健康を回復していなかったこともあって、結局ここでもシュヴェリーンは戦線を離脱して、再び領地に帰った。 七年戦争においてシュヴェリーンはその1年目はシュレージエン軍を指揮してメーレンのオーストリア軍を牽制した。2年目の大王以下のプロイセン軍主力によるベーメン侵攻では、シュヴェリーンもその軍に加わってプラハの戦いに参加した。この戦いでシュヴェリーンは、自軍の部隊が敵の抵抗の前に尻込みしているのを見て、大王もよくやったように、自ら軍旗を掲げて士気を鼓舞し、兵士たちを攻撃に駆り立てようとした。このときオーストリア軍砲兵の散弾を浴びてシュヴェリーンは戦死した。プロイセン軍は最終的に勝利を収めたが、のちに大王はこの戦いを回想して、「彼1人で1万人以上の兵に値した。彼の死は高くついた流血によってもたらされた勝利の月桂冠を萎ませてしまった」と記している。
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