聖徳太子と九州年号
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厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物であったとする。 で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことであるということにする。 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」・「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」・「王の妻は雞彌(キミ)と号す。後宮に女が600 - 700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、聖徳太子が推古天皇の代わりを務めたことを考慮しなければ俀国王自身は太子でも女帝(推古天皇)でもない。また、当時の俀国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めたと考えられることとする。 『古事記』には「 用明天皇記」において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1か所あるだけで業績に関する記載は無い。ただ、記述が無いだけで実績そのものが無い証明にはならない。 『法隆寺金堂釈迦三尊像』は「厩戸王子」の像ではない。『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622年)2月22日」である。 『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。
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