胡蜜檀国についての記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 18:23 UTC 版)
西域の胡蜜檀国について北宋模本では「来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主」という箇所が、張庚模本では「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主」となっている。揚州天子が南朝梁の武帝に対し「日出処大国聖主(日出る大国の聖なる主君)」と上表している。南朝梁は東南アジアや西域諸国との交渉が盛んで、諸国の武帝宛国書では仏教用語を用い武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれる。武帝は仏教信仰でも高名であった。 駒澤大学の石井公成は、遣隋使によって隋の煬帝に届けられた倭国(俀國)王に阿毎多利思北孤による国書のうちの「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という表現との関連について、百済仏教と南朝梁の仏教との密接な関連や、聖徳太子によるとされる三経義疏は、南朝梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』、同じく南朝梁の吉蔵(549年 - 623年)による『維摩経義疏』に基づいていることなど関連性の研究がまたれると指摘している。
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