胡耀邦と日中関係
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1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)、日中首脳会談では中曽根康弘首相が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案し、胡はこれに賛同した。他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた。この『ニ一世紀委員会』は1984年に発足し、いわば「第2トラック」として日中間の問題の調整を行ってきた。また、中曽根首相は胡とは「兄弟のように非常に親しい仲だった」と述懐している。来日した際には中国の首脳として唯一広島の原爆ドームなどを視察している。 1986年に中曽根首相が訪中した際は、中国人青年を毎年500人ずつ招待することを提案し、胡耀邦プランに応えた。胡耀邦時代は、日中国交正常化後、日中関係が最も良好な時期だった。胡耀邦の親日政策が一つの要素だったと考えられる。胡は1985年の靖国参拝問題でもかなり柔軟に対応し、1986年の第2次教科書問題でも抑制した態度をとった。日本の軍事力増強についても歓迎すらしていた。また、中曽根首相は韓国の全斗煥大統領が来日の際に提案していた中韓の国交樹立とソウルオリンピックなどのスポーツ交流、またはLT貿易事務所や通商代表部の設置をすれば日本としても中国の同盟国である北朝鮮との貿易を行う用意があると伝えた。同年9月に韓国で開催された1986年アジア競技大会への中国の参加は実現するも、この時点で胡は韓国の対中姿勢を評価しつつ日朝貿易や中韓国交正常化の提案に否定的だった。さらに胡は「年寄りを引退させる」と中曽根に述べており、これらの世代交代の人事案や「対日接近」が、後の胡耀邦の「辞任」の引き金の一つになったと言われる。
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