遣独潜水艦を指揮、戦死
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木梨は1942年(昭和17年)11月に海軍中佐に進級し、1943年(昭和18年)10月に伊29潜水艦長に転じた。 木梨が潜水艦長に補される前に、伊29潜水艦は、数少ない同盟国であり、潜水艦による以外は交通手段がないドイツに「遣独潜水艦」として派遣されることが決まっていた。 軍令部部員 兼 大本営海軍部参謀(潜水艦作戦担当)の職にあった井浦祥二郎(海兵51期・海大33期)は、海軍省人事局の主務課員から、連合軍の対潜哨戒が太平洋とは比較にならないほど厳重になっている大西洋に赴く伊29潜水艦の潜水艦長に誰を充てるべきか意見を求められ、海兵51期の同期生である木梨を推薦した。木梨がワスプを撃沈する偉勲を挙げていたことに加え、井浦が大尉で伊54潜水艦(のちの伊154潜水艦)先任将校(水雷長)を務めた際に(昭和7年 - 8年)、木梨が同潜水艦航海長であり、木梨の卓越した技量を知悉していたからであった。 木梨が指揮する伊29潜水艦は、ドイツを目指して1943年(昭和18年)11月5日に呉を出港し、14日にシンガポールに入港した。シンガポールで、ドイツが切実に求めていた東南アジアの物資、キニーネ・生ゴム・錫・タングステン・コーヒーなどを積み込んでいた12月5日に、連合軍が厳重な対潜哨戒を行っている大西洋を無事に脱出し、日本へ戻る途中の遣独潜水艦の伊8潜水艦がシンガポールに入港した。木梨は、伊8潜水艦長の内野信二大佐(海兵49期)から、航海上の難所である喜望峰沖の海象・気象、連合軍の大西洋での対潜哨戒の状況、特に連合軍の対潜警戒が厳しいビスケー湾(目的地であるロリアンはビスケー湾の奥に位置する)への進入手順などを詳しく聞いた。軍令部の指示により、伊8潜水艦からドイツ海軍の「最新型電波探知機(1)」を譲り受けて伊29潜水艦に装備した。 ドイツへ向かう準備を整えた伊29潜水艦は、ドイツに向かう16名の便乗者を乗せ、12月16日にシンガポールを出港した。12月23日、インド洋の中央付近で、インド洋で行動するドイツUボートへの補給を担当していたドイツ補給船と会合し、ドイツへ到達するのに十分な燃料の補給を受けた。この時、木梨は海兵51期の同期で親しい間柄だった井浦祥二郎に宛てた手紙を、ドイツ補給船に託した。結果として木梨の絶筆となったこの手紙は井浦に無事に届き、戦災を逃れて戦後まで残り、井浦が1953年(昭和28年)に上梓した『潜水艦隊』に全文収録されている。 連合軍のレーダー技術の進歩は著しく、伊29潜水艦がシンガポールでドイツから帰国中の伊8潜水艦から譲り受けて装備した「最新型電波探知機(1)」は既に旧式化しており、連合軍の対潜哨戒を突破するため、ドイツ海軍の指示により、伊29潜水艦はアゾレス諸島の南方600海里の指定地点で、1944年(昭和19年)2月13日にドイツUボートと会合し、ドイツの海軍中尉が「最新型電波探知機(2)」を携えて伊29潜水艦に乗組んだ。この地点から、ドイツ海軍・空軍の勢力圏に入るビスケー湾内の会合地点に到達するまでは、大半の行程を潜航し、厳重な警戒態勢で進まねばならず、3月10日に会合地点に到達し、ドイツ海軍・空軍部隊と合流してその護衛下に入るまで1か月近くを要した。3月11日、伊29潜水艦はロリアンへの入港を果たした。ロリアンで、伊29潜水艦は、ドイツでも僅か20基しか製作されていなかった「最新型電波探知機(3)」の提供を受け、装備した。 4月16日、伊29潜水艦は、日本に向かう18名の便乗者(日本人14名、ドイツ人4名)を乗せてロリアンを出港した。なお、これに先立ち3月30日にロリアンを出港して日本へ向かった、ドイツから日本に譲渡されたUボートである呂501潜水艦(潜水艦長:乗田貞敏少佐)は、戦後に判明したところでは、5月13日に大西洋の西アフリカ沖で連合軍対潜部隊に捕捉され、撃沈されている。 伊29潜水艦は、ビスケー湾からアゾレス諸島付近までの、連合軍の対潜哨戒が濃密な危険地帯を、長時間の潜航を続け、何度も爆雷攻撃を受けつつも通過することに成功し、喜望峰を回ってインド洋に入り、7月14日にシンガポールに入港した。 シンガポールでドイツからの便乗者を全て下ろした伊29潜水艦は、整備を終えて7月22日に内地に向けシンガポールを出港したが、7月25日に台湾とルソン島の間にあるバリンタン海峡を水上航行している時、3隻のアメリカ潜水艦の待ち伏せを受け、3隻のうちのソーフィッシュの雷撃で沈没した。下士官1名の生存者を除き、木梨以下の全員が1944年(昭和19年)7月26日付で戦死したと認定され、木梨は同日付で海軍少将に進級した(二階級特進)。満42歳没。 連合艦隊司令長官の豊田副武大将は、1945年(昭和20年)4月25日付で木梨の功績を全軍に布告した。
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