いぬかみ‐の‐みたすき【犬上御田鍬】
犬上御田鍬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/18 14:41 UTC 版)
時代 | 飛鳥時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 三田耜、御田鍬乃君 |
官位 | 大仁 |
主君 | 推古天皇→舒明天皇 |
氏族 | 建部君→犬上君 |
犬上 御田鍬(いぬかみ の みたすき、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は三田耜とも記される。姓は君。冠位は大仁。
最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた、大和朝廷の中級官吏・外交官の一人。
出自
犬上氏(犬上君)は日本武尊の子・稲依別王の後裔とされる皇別氏族[1]。氏の呼称は近江国犬上郡(現在の滋賀県犬上郡および彦根市とその周辺地域)に由来する[2]。
経歴
推古天皇22年(614年)6月に矢田部造(名不明)とともに最後の遣隋使として隋に渡る[3]。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した[4]。
舒明天皇2年(630年)8月に第1次遣唐使の大使として、薬師恵日と共に唐に遣わされる(このとき二人の冠位は大仁)[5]。舒明天皇3年(631年)[6]使節一行は皇帝・太宗と謁見した。この際、太宗はその道の遠いことを矜(あわ)れみ、担当の役人に勅して毎年の入貢をやめさせたという[7]。舒明天皇4年(632年)8月に使節一行は唐使・高表仁を伴って対馬国に着いた。この際、霊雲・旻・勝鳥養や新羅の送使も行をともにしている[8]。なお、高表仁は10月に難波津に到着し[9]、翌舒明天皇5年(633年)1月に唐へ帰国したが[10]、この間の御田鍬らの動向は明らかではない。
脚注
参考文献
- 小島憲之、直木孝次郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守 校訂訳『日本書紀 2 新編日本古典文学全集 3』小学館、1996年
- 小島憲之、直木孝次郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守 校訂訳『日本書紀 3 新編日本古典文学全集 4』小学館、1998年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
- 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年
犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 20:23 UTC 版)
「ツギハギ漂流作家」の記事における「犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)」の解説
隼土出版の漂流作家で、命具は骨である。ほかの人と言葉が被り、犬のような仕草をよくする。漂流作家としての腕前はまだ発展途上である。
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