日本病院の建設
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「在ブラジル日本人同仁会」の記事における「日本病院の建設」の解説
1931年、在サンパウロ日本国総領事館に就任した内山岩太郎総領事が日系医師を召集し、日本人医師会を結成。召集されたのは同仁会地方医局の医師達で保健衛生問題について討議が行われた。医師側の意見は「まず地方都市に小規模な病院を建て、将来的にサンパウロ市に総合病院を建てる」であったのに対し、内山総領事は「病院経営には膨大な経費がかかり、日本政府の賛同も得難い。まず、サンパウロ市に本院を建て、実績をあげてから地方に分院を建設する」と説得し、日本病院建設期成同盟会が組織された。その後、内山総領事は私財を投じて160個の期成箱を作成し、各地に設置して募金を募った。総領事の「例え一枚の瓦でも」という呼びかけは大反響を起こし、病院建設への気運を高めた。 1933年1月、第一回邦人医師協議会において日本病院建設準備委員会が設立された。同年6月18日(日本移民25周年記念日)にすでに購入済みの病院敷地内で定礎式が行なわれた。日本病院建設準備委員会は「日本病院建設趣意書」を作成し、日本国外務省へ送った。趣意書では当時のブラジルの病院の少なさ、公立病院や慈善病院の混雑による入院の難しさとそれによって落とされる命、言葉の壁による問題等を伝え、日本病院建設の必要性を訴えていた。また、当時の日系社会の経済基盤が弱く、自力での病院建設が不可能だったことも同書に述べられていた。 この切実な願いが日本へ届き、1934年4月29日(天長節)に「日本病院建設のために」として5万円が下賜された。これを機に日本政府は日本病院建設指定補助金として30万円を1935年以降、3ヵ年で給付することを決定。サンパウロ市においてもサンパウロ市日本病院建設後援会が組織されて大々的に募金活動が行われた。 1935年3月8日、在外公館が中心となり日本病院建設委員会を設立。総裁に沢田節蔵大使、顧問に内山岩太郎大使館参事官、会長に市毛孝三総領事、中央委員長に梅本徹雄主席領事そして地方委員長には地方の領事を推し、日系社会の寄付金で建設費の三分の一を賄う計画を立てた。 日本病院建設意趣書と共に設計案が外務省に提出されていた。この設計案に対する外務省の修正案を取り入れ、河田明博士が設計を担当することになったが、彼が急逝したため計画は一時中断した。これを引き継いだのはサンパウロ医大教授でサンパウロ州病院監督局長のレゼンデ・ブッシュ博士であった。高齢だった彼の健康上の問題を考慮して、細江静男が助手としてサポートすることになった。細江はブラジルの有名病院を視察して病室、手術室、分娩室、食堂、調理室、洗濯場等を細かく調査し、その後ブッシュと2人で検討し設計案を作成。最終的には設計案はブッシュと鈴木威建築技師の両氏に検討され、日本病院設計図が完成した。 一方、病院の経営法については同仁会は「病院は日系社会が運営するが、対象は人種・国籍を問わず、困窮者には無料診察を施し、我々を受け入れてくれたブラジル社会に貢献する。また、日本ブラジル合同の医学研究の場とし、病院経営では建設に協力した日本人全体をもって新たな運営団体を設置する」と提案。これに日本から派遣された新垣恒政外務省顧問医の案が加味され決定された。 1936年4月5日、サンパウロ市ヴィラ・マリアーナ区サンタクルス通りの病院敷地で日本病院起工式典が行われた。建築責任者には鈴木建築技師、工事監督には外務省より派遣された坂本信太郎技師が任命された。当初の建設予算は3274コント(約80万円)であったが、最終的には4979コント(約100万円)まで膨れ上がった。主な原因は日本から輸入した鉄材、コンクリートに対する関税、建築資材の値上がりである。輸入鉄材においては通関手続きに7ヶ月もかかり、それでは工事に支障をきたすため、現地で鉄材を調達し、せっかく日本から輸入したが不要となった鉄材を返送する費用が生じた。この様な諸雑費が工費の増大に拍車をかけた。 また、日本より派遣された3名の医学博士(鎌田竹次郎、竹ノ内善次郎、木村稔)はブラジルでの医師免許がなく、院長、副院長就任どころか診察、治療もできず、1937年6月に帰国を余儀なくされた。看護師に関しても同様に資格の有無が問題となり、日本から派遣された2名の看護師長をはじめ日本病院看護婦養成所で養成された看護師の集団辞職が問題となった。この事態に対処すべく、同仁会はサンパウロ医大のベネジット・モンテネグロ外科医に院長就任を要請、副院長には同仁会の武田義信医師が選ばれた。 1938年12月、同仁会は日本病院内に移転。翌39年4月29日に落成式を行い、診療を開始した。同年10月10日、同仁会は名称をSociedade Beneficente Santa Cruz(サンタクルス救済会)に改称し、定款も改め合法的なブラジル国内の団体となった。 1940年9月24日、日本病院の正式な開院式が行われた。当初は「同仁会病院」の名称が望まれたが、当時のブラジル情勢に考慮し、Hospital Santa Cruz(サンタクルス病院)と命名された。第二次大戦前にブラジルの日本人が総力を挙げて建設した同病院は地上5階、地下1階、延べ床面積9692平米で病室76、病床200と当時としてブラジル有数の設備を誇り、海外で最大級の日本の建物であった。
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