日本病院の建設とは? わかりやすく解説

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日本病院の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 19:26 UTC 版)

在ブラジル日本人同仁会」の記事における「日本病院の建設」の解説

1931年在サンパウロ日本国総領事館就任した内山岩太郎総領事日系医師召集し日本人医師会結成召集されたのは同仁地方医局医師達で保健衛生問題について討議が行われた。医師側の意見は「まず地方都市小規模な病院を建て、将来的サンパウロ市総合病院建てるであったのに対し内山総領事は「病院経営には膨大な経費がかかり、日本政府賛同得難い。まず、サンパウロ市本院を建て、実績をあげてから地方分院建設する」と説得し日本病建設期成同盟会が組織された。その後内山総領事私財投じて160個の期成箱を作成し各地設置して募金募った総領事の「例え一枚の瓦でも」という呼びかけ大反響起こし病院建設への気運高めた1933年1月第一回邦人医師協議会において日本病建設準備委員会設立された。同年6月18日日本移民25周年記念日)にすでに購入済み病院敷地内定礎が行なわれた。日本病建設準備委員会は「日本病建設趣意書」を作成し日本国外務省送った趣意書では当時ブラジル病院少なさ公立病院慈善病院混雑による入院難しさとそれによって落とされる命、言葉の壁による問題等を伝え日本病建設必要性訴えていた。また、当時日系社会経済基盤弱く自力での病院建設不可能だったことも同書述べられていた。 この切実な願い日本届き1934年4月29日天長節)に「日本病建設のために」として5万円が下賜された。これを機に日本政府日本病建設指定補助金として30万円1935年以降、3ヵ年で給付することを決定サンパウロ市においてもサンパウロ市日本病建設後援会が組織され大々的募金活動が行われた。 1935年3月8日在外公館中心となり日本病建設委員会設立総裁沢田節蔵大使顧問内山岩太郎大使館参事官会長市毛孝三総領事中央委員長に梅本徹雄主席領事そして地方委員長には地方領事推し日系社会寄付金建設費三分の一賄う計画立てた日本病建設意趣と共に設計案外務省提出されていた。この設計案対す外務省修正案取り入れ河田博士設計担当することになったが、彼が急逝したため計画一時中断した。これを引き継いだのはサンパウロ医大教授サンパウロ州病院監督局長のレゼンデ・ブッシュ博士であった高齢だった彼の健康上の問題考慮して細江静男助手としてサポートすることになった細江ブラジルの有名病院視察して病室手術室分娩室食堂調理室洗濯場等を細かく調査しその後ブッシュ2人検討し設計案作成最終的に設計案ブッシュ鈴木建築技師両氏検討され日本病設計図完成した一方病院経営法については同仁会は「病院日系社会運営するが、対象人種国籍問わず困窮者には無料診察施し、我々を受け入れてくれたブラジル社会貢献するまた、日本ブラジル合同医学研究の場とし、病院経営では建設協力した日本人全体をもって新たな運営団体設置する」と提案。これに日本から派遣され新垣恒政外務省顧問医の案が加味され決定された。 1936年4月5日サンパウロ市ヴィラ・マリアーナ区サンタクルス通り病院敷地日本病起工式が行われた。建築責任者には鈴木建築技師工事監督には外務省より派遣され坂本信太技師任命された。当初の建設予算は3274コント(約80万円であったが、最終的には4979コント(約100万円)まで膨れ上がった主な原因日本から輸入した鉄材コンクリート対す関税建築資材値上がりである。輸入鉄材においては通関手続きに7ヶ月もかかり、それでは工事支障をきたすため、現地鉄材調達し、せっかく日本から輸入した不要となった鉄材返送する費用生じたこの様な諸雑費工費増大拍車をかけた。 また、日本より派遣された3名の医学博士鎌田竹次郎竹ノ内善次郎木村稔)はブラジルでの医師免許がなく、院長副院長就任どころか診察治療もできず、1937年6月帰国余儀なくされた。看護師に関して同様に資格有無問題となり、日本から派遣された2名の看護師長をはじめ日本病看護婦養成所養成され看護師集団辞職問題となった。この事態対処すべく、同仁会はサンパウロ医大のベネジット・モンテネグロ外科医院長就任要請副院長には同仁会の武田義信医師選ばれた。 1938年12月同仁会は日本病院内移転。翌39年4月29日落成式行い診療開始した同年10月10日同仁会は名称をSociedade Beneficente Santa Cruzサンタクルス救済会)に改称し定款改め合法的なブラジル国内の団体となった1940年9月24日日本病院の正式な開院式が行われた。当初は「同仁病院」の名称が望まれたが、当時ブラジル情勢考慮しHospital Santa Cruzサンタクルス病院)と命名された。第二次大戦前ブラジル日本人総力挙げて建設した同病院は地上5階地下1階延べ床面積9692平米病室76病床200当時としてブラジル有数設備誇り海外最大級日本建物であった

※この「日本病院の建設」の解説は、「在ブラジル日本人同仁会」の解説の一部です。
「日本病院の建設」を含む「在ブラジル日本人同仁会」の記事については、「在ブラジル日本人同仁会」の概要を参照ください。

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