日本病理学会総会での発表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:51 UTC 版)
「綿ふき病」の記事における「日本病理学会総会での発表」の解説
ここまでの調査では綿の排出機構は不明であり、病理学的な研究も成功しなかった。しかし田尻も赤木も、何らかの未知なる理由によって綿が排出されているとしか考えられないとして、1961年(昭和36年)の日本病理学会の総会に出席した赤木は多数の参加者を前に、『無限に多量の綿を産出する奇異な症例、所謂「綿ふき病」について』と題し、田尻医院におけるN農婦の入院来の経過詳細と、皮下腫瘤の病理組織学的検査に基づく考察、仮説を発表した。 赤木の発表の趣旨は、現段階では産出機構は不明であるものの、生体に何らかの感染などの外的要因が加わって、顕花植物の、少なくとも限られた組織は、寄生できるのではないか、そこからセルロース(この場合は木綿)が産出されるのだろうという寄生説であった。 赤木の発表を聞いて、その場で即座に立ちあがり反論したのは、当時の日本国内の病理学会の大家にして重鎮の広島大学教授の玉川忠太であった。 綿ふき病は多くの学者にとって自然科学の常識からは容易に理解できない現象であり、綿や木綿と聞いて、木綿畑で育つ、花、実、綿毛といった植物を直接連想した玉川は、総会に参加する大勢の学者や医療関係者が居並ぶ会場で赤木に向かって「“…その創口から綿の花が咲くのを見るまでは信じられない…”」と情緒的な発言を行った。そのため出席した他の学者らは黙り込んでしまい、赤木の報告に対し病理学会らしい学術的な討論は行われないまま終わってしまった。この総会内容を記載した翌1962年発行の『日本病理学会誌 第50巻』において玉川は短評を追加しており、その末尾で「“…私の蒙をおひらき下さるより精細な機序をご提供下さる日の近からん事を祈ります。”」と慇懃に結んでいる。批判を受けた赤木本人と主治医である田尻は公衆の面前で暴言を浴びせられたと感じ、甚だしく心情を害したという。 田尻と赤木の2名も他の医師や研究者同様に最初はN農婦の作為的な可能性を疑ったものの、実際に目の前で目撃した信じがたい現象に自分たちの目を疑い、数年間にわたり何度も真剣に検証を行い、原因不明なものの「作為的なものではない」と確信していた、だからこそ田尻も赤木も「いかなる批判も誤解も覚悟の上」での発表であったという。しかしながら病理学会における老大家の発言は、その後も続いた複数名の病理学や法医学者らによる否定的見解と合わせ、綿ふき病に関する研究の方向づけがネガティブになり、第三者がこの問題に深入りしたがらない風潮が形成されていく契機となる出来事であった。 田尻はこの発表によって批判されることは必至だろうと最初から想定しており、日本医事新報へ掲載した論文の冒頭で次のように述べている。 事実はあくまで事実で、私はどのような批判や嘲笑が浴びせられようとも、いかに誤解を蒙ろうとも、それでも綿は作られている、といわねばならないのである〔ママ〕。 — 『多量の綿を産出する奇異な慢性肉芽性炎例について - 日本医事新報』。1960年 田尻保。
※この「日本病理学会総会での発表」の解説は、「綿ふき病」の解説の一部です。
「日本病理学会総会での発表」を含む「綿ふき病」の記事については、「綿ふき病」の概要を参照ください。
- 日本病理学会総会での発表のページへのリンク