田尻医院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:51 UTC 版)
田尻医院(病院)の位置 1957年(昭和32年)5月24日、岡山県英田郡美作町(現美作市)の田尻医院(現、医療法人三水会田尻病院)に、近くに住む43歳の農家の主婦が皮膚の異常を訴えて来院した。 診察を行ったのは田尻医院院長(当時)の田尻保である。田尻は1936年(昭和11年)に岡山医科大学 (旧制)(現岡山大学医学部)を卒業。その後、岡山県内の医療機関などで10年ほど働き、1946年(昭和21年)1月に、同県北東部の農村に位置する英田郡楢原村に診療所を開設、その5年後の1951年(昭和26年)2月に、同郡豊国村明見(みょうけん)地区に診療所を移転した。この場所が今日の田尻病院の所在地である。田尻医院は近隣の地域住民の一般診察を行う開業医であり、現在地へ移転した後、病院規模は開業医としては大きくなっていき、1960年代中頃にはベッド数40台以上を擁し、入院患者は多い時で50人以上、1日あたりの外来患者が100人を超す日もある美作地区有数の個人病院であった。 皮膚の異常を訴え診察に訪れた農婦(以下、N農婦と記述する)は、1914年(大正3年)2月生まれの当時43歳であった。田尻医師(以下、田尻と記述する)が診察するとN農婦の右前腕5か所と右上腕1か所、それに左下腿1か所、合計7か所に開口した切開創があり、それらの創口の内部は膿と脱脂綿のようなもので満たされ、ひどい悪臭を発していた。 N農婦の話によると、このような症状が最初に起きたのは一昨年、1955年(昭和30年)の2月だという。田尻は直前に処置を行った誰かが創口内部に綿を詰めるという奇妙な処置を行ったと思いつつ、これら脱脂綿状のものをピンセットで摘まんで除去し、創口はリバノール液を使って消毒を行い、上腕や下腿の創口周囲に包帯を施し、念のため大事を取ってN農婦を当院に入院させた。 ところが翌朝になって昨日巻いた包帯を外すと、綿を除去したすべての創口内部に、再び膿にまみれた綿束状のものが充満していたため田尻医師は仰天する。もしかしたら昨日の処置の際、取り除くのを忘れた綿があったのかもしれないと、今度こそ1束の綿束や綿の断片も取り残さないよう細心の注意を払い、創口内部を洗浄して再度包帯を巻いた。しかしその翌日も、そのまた翌日も創口内部に綿束が充満していた。田尻はこの綿束を水洗いして血や膿を取り除いてみたが、どこにでもある普通の綿にしか見えない。 これは常識で考えれば「ありえない」事象であり、N農婦の行動に疑念を持った田尻は一種の自傷行為の可能性を考え、同院勤務の看護師やスタッフらとともに、本人に悟られないよう監視を続けつつ、数日間にわたり創口の処置を繰り返した。それでも綿束の排出は一向に止まらなかった。入院から1週間ほど経過した6月1日、腹部にできた切開痕のない無傷の膿瘍を切開すると、その中から同様の綿束が出現した。このとき行われた膿瘍切開は、その後、約9年間にわたり続くN農婦の身体各部位に生じた累計75回にも及ぶ1回目の膿瘍切開であった。 このように綿束は創口の開いた部位だけでなく、腫れているとはいえ傷口のない皮膚を切開した皮下からも出てきたのである。にわかには信じ難い症状を目の当たりにした田尻は、徹底的に調べるため入院期間を延長継続し、当初は比較的軽症者の入る6人用の相部屋病室へ入院させたが、その間にも綿束の排出は盛んに続いた。田尻は後年になって「同室に他人が5人もいる監視の目を盗んで自傷行為を行うのは不可能である」と、綿ふき病の存在を否定する側に対する反論根拠のひとつとして挙げている。 その後も次々に生じた左右上腕や右前腕の膿瘍を切開するたびに、中から膿にまみれた綿束の出現が繰り返され、やがて尿の中からも綿が確認された。慎重に監視と処置を続けていく中、田尻はやがて、綿の出現はN農婦本人や家族らによる作為的なものでは「ない」との確信に至った。
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