田尻医院での1泊2日の観察経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:51 UTC 版)
「綿ふき病」の記事における「田尻医院での1泊2日の観察経過」の解説
健田らが来訪する連絡を受けていた田尻は風邪で体調を悪くしていたものの約束通り3名を迎え入れ、ガラス瓶や空き缶に保管された、これまでに排出された驚くべき量の綿を見せた。また、見知らぬ人たちに見られることを常々嫌がっていたN農婦へは、あらかじめ田尻が事情を話して説得しており、健田ら3名はN農婦の入院する病室へ支障なく通された。この日、はじめて田尻と対面した健田は「一見して行動力のある真面目な外科医という印象を受けた」と記している。 この日の夕刻から翌日にかけて行われたN農婦の観察の様子は健田によって克明に記録された。この時のN農婦は右下のふくらはぎと大腿部に複数の創口があって、いずれも多かれ少なかれ綿を噴き出しているが、ふくらはぎを観察部位とした。この段階で、健田らが確認したふくらはぎの創口は大小4か所、そのうちの1つが深くて大きく、その創口の周囲の皮膚は大きく膨隆(ぼうりゅう)している。17時少し前に田尻によって創口内部の綿はきれいに除去された。通常であればその後、包帯を巻くのであるが、目の前で綿が出来る様子が見られるだろうという田尻の意向により、この創口は開いた状態で観察することになった。ベッドの横の狭い空間に3個の椅子が並べられ、健田、足立、中川の3名はN農婦の創口を凝視し観察をはじめた。N農婦は非常に協力的で、自ら進んで創口を見せてくれたといい、健田は4か所の創口と一部が膨隆しているふくらはぎの様子をスケッチした。 観察の経過を以下に記す。 17時少し前に田尻によって創口の処置(綿の排出と消毒)が行われる。 2月19日 17時25分 4つある創口のうちの一番大きく深い創口から血液の混ざった滲出液(しんしゅつえき)が滲み出しはじめる。 同日 17時40分。 次第に滲出液が増加してくる。 同日 17時54分。 創口の一部に繊維素の疑塊を認める。 同日 18時05分。 綿らしきものはまだ出てこない。 同日 18時38分。 N農婦が心悸亢進を訴える。脈拍128。田尻により強心剤と抗生物質の注射が行われる。 同日 18時50分。 滲出液の中に絮状膿片(綿状の膿)が浮遊してくる。 同日 19時15分。 綿はまだ出てこないが、田尻から風邪気味であるため帰宅の希望があった。そのまま3人だけで観察を続けても構わないとのことであったが、これ以上創口を露出させた状態を続けるのはN農婦に負担がかかることから、3人は一旦観察を中断することにし、創口内部を消毒、ガーゼを重ねてポリエチレン布を当て、さらに大型のガーゼで覆い、その周囲をアクリル系の接着剤でとめ、その上に包帯を巻いた。こうすることで、もし仮に創口に触れようとすれば必ず接着剤を剥がさなければならず、夜中にN農婦が創口を触ったり開いた場合、接着剤の剥がされた痕跡が残るはずである。 こうして3人は近くの旅館へ宿泊し、翌朝の9時前に病室を訪れた。 2月20日 09時 早速3人は昨夜に巻いた包帯を解いてみたが、接着剤を剥がした形跡はなかった。主治医の田尻は津山市の自宅で静養中であったため、代わりに中川が包帯の交換を行うと、何と膿にまみれた綿繊維の小さな塊が次々に出てきて全部で18個に達した。この時、健田は再度スケッチを行った。昨夕とは少し形状が異なっており、最も大きく深い創口は明らかに大きくなっており、その他は小さく治癒傾向が強い。そして膨隆していた部位は小さくなっていて、その周囲に2つの小さな創口が見つかった。この2つの創口が昨日見逃したものなのか新たに生じたものなのか判別できなかったが、2つの小さな創口と昨日から確認中の大きな創口との間をゾンデを使って確認すると貫通していることが判明した。健田はさきほど出てきた18個の綿の塊は、昨夜確認した膨隆部の皮下に最初から挿入されていたのではないかと考えた。昨夜は貫通しているかどうか確認できなかった創口間が、ゾンデで容易に通るようになったことも、この疑いを強める一因になった。3人は引き続き昨日と同様に厳重に包帯を施し観察を続けた。 同日 12時30分 包帯交換を行うが、全く綿は認められなかった。ハイアミン綿球(逆性石鹸)を使い創口を消毒して3回目の包帯を施す。もう綿は現れないかもしれないという雰囲気が3人の間に感じられ、見切りをつけた足立はここで離脱し1人で帰路についた。もともと、この2日間、3人は休日を利用しポケットマネーを割いて田尻医院を訪問していたのだった。それでも健田と中川の2人は狭い病室でN農婦と相対し続けた。 同日 17時すぎ 風邪気味で一時帰宅して静養していた主治医の田尻が病院へ戻る。田尻によって包帯の交換が行われる。驚くことに同じ創口から再び10個ほどの綿の小さな塊が次々に出てきたのである。健田も中川もまるで手品を見ているようだったという。 目の前で見る見る綿が出てくる、というわけにはいかなかった。田尻の「これを皮下で綿が作られているといわずに、どうして説明するのか」という主張はもっともであった。だが、それでも考えれば考えるほど常識とかけ離れた荒唐無稽のことに思えた健田は、田尻や赤木の主張に全面的に同意することもできず、かといって承認することもできなかった。
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