田尻敢の人柄とハンセン病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 01:06 UTC 版)
中学時代からクリスチャンである。光田健輔はハンセン病研究家になる場合は外の施設で専門を勉強することを勧めていたが、田尻敢の場合はそれが耳鼻科であった。田尻が愛生園に入った頃は光田門下の林文雄、田尻敢、井上謙、宮川量など意気盛んであったという。桜井方策は田尻が学問をやりながら、光田を助け愛生園患者騒動で苦労したと述べている。菊池恵楓園では宮崎松記の後に園長になったが、宮崎が退職した時が入所患者数が最大で、その後徐々に減じてきた。内田守は眼科医で気管切開もするが、田尻敢に患者の呼吸困難で夜間往診を頼んだ時に、患者のヒステリーを指摘したエピソードを述べている。菊池恵楓園の自治会長の荒木正は田尻が重度の障害者でも菌が陰性で、受け入れに問題がない場合は退院を許可したと述べている。
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