問診によるN農婦の発病経過
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「綿ふき病」の記事における「問診によるN農婦の発病経過」の解説
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 田尻医院 岡山市 岡山県における田尻医院の位置 田尻はN農婦が来院する以前の状態や経緯について、本人から詳しく聞き取り問診を行った。N農婦は既婚者であり、会社員の夫、中学生の子供と暮らす、ごくありふれた主婦で、今回の症状が現れる以前に大きな病気はなく、手術を受けたこともなかった。ここ数年来は繰り返す発熱により全身状態は衰弱気味ではあるものの、意思疎通には問題はなく、受け答えも明瞭で、どちらかと言えば頭の回転の速い快活な女性であり、少なくとも精神面での異常は見られなかった。 身体の異常は2年ほど前から散発的に続いており、N農婦本人の証言によれば次のような経過であった。 もともと健康であったN農婦は1955年(昭和30年)の2月、自宅近所にあるため池の堤防修復作業を行った日の夜半、突然悪寒と戦慄を起こし高熱が出た。この発熱は2日間続いたのち自然に下がったが、それから約40日後の同年3月、同様の症状と高熱が再び出て、このとき体温を測るために腋下に挟んだ体温計が43度を超え水銀柱が破損してしまったという。 それ以来、毎日午後になると38度ほどの発熱が起き、全身がだるく床に伏しがちなり、同年5月にも体温計が破損する超高熱と発作に見舞われた。同年11月になって右季肋部(みぎきろくぶ、肋骨の下部)に親指先端部ほどの皮下腫瘤(ひかしゅりゅう)ができ、それが徐々に腫れて大きくなり、翌1956年(昭和31年)2月、鍼師にその部位をハリで刺してもらったところ、翌日になって悪寒戦慄とともに腫瘤が痛み出し、日を追うごとに腫瘤が大きく腫れていき、ついに同年9月、自然に潰れて中から大量の膿が排出された。それ以降はほぼ毎日ガーゼ交換のために内科医師の往診(田尻医院とは別の開業医)を受けたが、N農婦によればその頃より膿汁の中に綿らしきものが混ざっていたという。 翌1957年(昭和32年)2月頃になると、新たな皮下腫瘤が右腕の上腕や前腕、左右下肢のふくらはぎに現れ始め、次々に腫れて化膿して腫瘍のようになり、切開を受けたり自然に潰れたりを繰り返した。また、包帯を交換する度に綿が創口内部に現れ、中には綿の塊のようになっていたこともあったという。 最初にできた季肋部の創口は数か月で治癒したが、右腕やふくらはぎの創がなかなか良くならず困り果て、同年5月24日に田尻医院へ初診に訪れた、ということであった。
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