それでも「綿ふき病」はあった
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「綿ふき病」の記事における「それでも「綿ふき病」はあった」の解説
N農婦が田尻医院へ入院してから30年以上が経過し、岡山大学附属病院退院から数えても20年以上が経過した1988年(昭和63年)、増田陸郎は綿ふき病についての知見をまとめた『綿ふき病始末記、それでも綿ふき病はあった』と題した論文を日本医事新報へ寄稿した。この論文は上、中、下、と3回にわたって同新報に掲載された合計12ページに及ぶもので、発見から30年以上が経過し「綿ふき病」の名称も忘れられ、このまま風化してしまうことを憂慮した増田が、N農婦の人権回復と、主治医であった田尻の名誉回復の労を取りたいと願い出て実現したものであった。 当初から検診や検証に携わった田尻と赤木から顕微鏡写真や膿瘍切開データ等の貴重な資料の提供協力があったものの、本音で言えば2名とも綿ふき病の「ワ」の字も語りたくないというのが実情のようで、綿ふき病に携わった当事者の苦悩は数十年を経た今もなお残っており、その精神的な苦痛は相当なものであったのだろうと改めて増田は感じた。 綿ふき病が興味本位に騒がれ、一部の学者が詐病視したため、医学雑誌では真面目に取り上げようとしないのが現実で、田尻や赤木が当初意図したような学問的な軌道に乗ることはなかった。また、医療関係者でない中立的な立場として、農学者である二国が企図した総合研究も立ち消えとなってしまった。 田尻医院を訪れN農婦の創口から綿の排出を目撃した医学者以外の第三者が複数人いるのに、この人たちは口を閉ざして多くを語ろうとはしなかった。なぜならば、診断や治療は医師のみに許される行為だからであって、「詐病」と判定されてしまえば、他分野の学者にとってそれは不可侵の領域、学者間同士の不文律のようなものだからである。新しい事実が確定するまでには多くの誤解が生じるのは仕方ないが、綿ふき病が「疾病」であろうが「何らかの現象」であったとしても、純粋に「ある」or「なし」の決定は、あらゆる懐疑的な先入観を排除した自然観察だけで事足りるはずなのに、綿ふき病は出発点の段階で止まってしまい、学問になり得なかったのである。 田尻は増田から日本医事新報への論文寄稿の話を聞くと、資料類の提供だけでなく、近隣に住むN農婦の元を訪れ治癒痕の写真撮影を申し入れ、撮影された治癒痕の写真は増田の元へ資料として提供された。撮影が行われた1988年(昭和63年)、N農婦は既に74歳の高齢になっていた。 「Nさん、申し訳ないが、又キチガイだの詐病だのというものが居るので、そのあかしを立てるために、今一度写真をとらせて貰えないか」と頼んで病院につれて来て、瘢痕の部をはっきりさせるために、水性マジックを瘢痕に塗って居る時「私はもうこの病気のことにはふれたくありません」と言葉少なく語った一言に、一時は綿ふき病のワの字を言うのも嫌になっていた(今も何となく嫌です)私は、「そう、私も全く同感じゃなー」と相槌を打ったが、十年の歳月を何度か死線を彷徨迄して悪戦苦闘した揚句、詐病と迄言われて感無量の二人でした〔ママ〕。 — 『おわりに』。1988年 田尻保より増田陸郎へ宛てた手紙。 田尻からの手紙を受け取った増田は2人に対して申し訳なくなり、論文の末尾で、…以上、作州の寒村で奇病に耐えて生き残った貧しい農婦・Nさんと、献身的にこれを救った田尻保博士のことを記し、誇りある二人の物語を美しい医学ロマンとして語り継ぎたいものである。… と結んでいる。
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