保皇派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 23:39 UTC 版)
「梁啓超#日本亡命と言論活動(1898-1911)」および「章炳麟#康有為・梁啓超との論争」も参照 変法に失敗した康有為・梁啓超らは、日本に亡命した。以降の彼らは「保皇派」と呼ばれる。保皇派とは、清朝(皇帝制度)を維持したまま、憲法制定等の改革によって、中国の近代化、立て直しを図るべきと考える立場の人々のことであり、孫文・章炳麟ら「革命派」と対になる言葉である。 彼らが亡命中の1899年に、「保皇会」(zh)こと「保救大清皇帝会」が設立されたことから保皇派の名前が定着する。また、「立憲派」「改良派」「変法派」との範囲の違いや時期的な使い分けも存在するようであるが(これらの言葉は、上記亡命前から使われており、例えば、亡命後は、これらの言葉が使われないとする考え方もあるが)、厳密なものでも、明確なものでもない。なお、光緒帝死後は、皇帝を擁立する考え方は鳴りを潜め、「保皇派」ではなく「立憲派」などと呼ばれるようになる。 保皇派に属する者としては上記の康有為と梁啓超以外に羅伯堂・唐瓊昌らがいる。中華民国大総統の袁世凱を中華帝国皇帝に即位させた楊度は保皇派のイデオローグであった。
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