概念の形成
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欧米では東西の世界にそれぞれオリエントとオクシデント(Occident)の表現を用いることがある。イースト(east)とウエスト(west)、オリエントとオクシデントはいずれも方向を指し示すもので、ラテン語であり、もとはギリシャ語からきている。「オリエント」の語源はラテン語で「日が昇る方角」(=東)を意味するオリエンス(Oriens)である。英語のイーストやドイツ語のオスト(ost)などはギリシア神話のエオス(暁の女神)に由来する。 広義の「東方」という意味の「オリエント」は、「ウルグアイ東方共和国」(República Oriental del Uruguay)などの地名にもみられる。 ヨーロッパではイースト、オリエント、アジアといった概念が「ヨーロッパ以外のもの」に対する概念として形成されるなど、これらの内容は本来的に千差万別で国や何に焦点を当てた議論かによって一律ではない。 オックスフォード大学では、オリエント研究が学部名称となっているが、その研究対象には中近東から日本まで全アジア地域を含む。一方で香港で1954年に創刊された雑誌『ジャーナル・オブ・オリエンタル・スタディーズ(ノルウェー語版)』の研究対象は東アジアと東南アジアでもっぱらユーラシア大陸の東端地域である。 歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたるふたつの文化圏が存在し、現代日本語では二つの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。オリエントとオクシデントはヨーロッパで、東洋と西洋は日本で形成され、本来は全く関係ない独立した思考概念であるが、東洋はオリエントに相当する語として捉えられている。 色々な概念が混ざって複雑な欧米語とは違って、日本語で「オリエント」というときは、歴史的用語で古代エジプト、古代メソポタミアを含み、さらにトルコやパレスチナ、ペルシア(イラン)まで広がる「古代オリエント」を指すのが普通である。「オリエント学」も参照。いまの「中近東」の領域ともだいぶ重なる。ここは、世界最古の文明が起こった歴史的にも重要な地域である。
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概念の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:37 UTC 版)
中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。 満州人が成立した清国末期(20世紀)に君主制が廃止すべき革命派が「駆除韃虜、回復中華、創立合眾政府」をスローガンに掲げて辛亥革命と呼ばれる共和制国家の樹立運動を行い、辛亥革命が成功すると漢民族の革命派は立憲派や保皇派が革命派の排満論に対抗して提唱した五族不可分論である「五族共和」を採用し、1912年1月1日に孫文が臨時大総統就任宣言で「漢満蒙回蔵ノ諸地ヲ合シテ一国トナシ、漢満蒙回蔵ノ諸族ヲ合シテ一人ノ如カラントス」 として清王朝の支配下にあった地域を統合しようとし、1921年に孫文は三民主義の具体的方策の中で「漢族ヲ以テ中心トナシ、満蒙回蔵四族ヲ全部我等ニ同化セシム」 として満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人を同化することを提唱した。1925年には孫文は、外来民族は一千万しかいないとして、4億人のほとんどが漢民族であるので中国人は完全な単一民族であるとした演説を行い、漢民族によって中華民族という概念が形成された。 「中華民族」という単語が初めて公式に出てくるのは、1900年11月、清の政治家伍廷芳の講演とされる。その後、清時代のジャーナリストの梁啓超などが使用するようになる。梁啓超の著作では、1905年に書かれた歴史上中国民族之観察では、満州族やモンゴル族、チベット族は中華民族に含まれないとしているが、1922年の「中国歴史上民族之研究」では満州族を中華民族に含むとしている。1988年、費孝通が発表した「中華民族多元一体構造」論では、中国に住む諸民族は、数千年の歴史を経て形成された一体性を有するとしている。この「中華民族多元一体構造」は現在の中国の民族政策の基本路線を成すとされる。
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