保皇派のイデオローグとして
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知県候補の子として生まれる。1894年(光緒20年)、順天府の郷試に合格したが、翌年の会試では落第した。同年、故郷に戻り、国学大師王闓運に師事する。 1902年(光緒28年)5月、日本に留学し、弘文学院で学ぶ。その一方で、『遊学訳編』という月刊誌を編集し、西洋の政治学を留学生に紹介した。11月に帰国し、翌年、四川総督錫良の推薦により、戊戌の変法後に科挙に新しく設けられた経済特科を皇帝臨席の保和殿で受験し、第一等第二名の成績を得た(第一等第一名は梁士詒)。しかし、梁士詒とともに康有為・梁啓超の一党と疑われたため、楊は再び日本へ渡った。1904年(光緒30年)に法政大学速成科に入学し、中国留日学生総会館幹事長となる。 1905年(光緒31年)7月、楊は孫文(孫中山)と対面し、その場で孫から中国同盟会加入を勧められた。楊はこれを辞退したものの、黄興を孫に紹介している。後に楊は横浜に逗留していた孫と再会し、議論を繰り広げたが、結局、楊は立憲君主制支持の立場を守った。 楊度は熊希齢の要請に応じ、翌年夏、憲政の海外視察に向かう五大臣のために「中国憲政大綱は東西双方の長所を吸収すべき」、「憲政実施の手続」の2編の論文を奉呈した。1907年(光緒33年)1月、楊は『中国新報』を創刊し、「金鉄主義」という14万字の論文を発表している。この中で、楊は保皇派の立場を明確に示した。2月には、政俗調査会を組織して会長となった。7月には憲政講習会を組織し(後に憲政公会と改称)、その常務委員長となり、国会速開論の口火を切った。
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