湘軍での台頭
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1906年(光緒32年)、桂林に向かい広西陸軍小学堂第2期で学ぶ。1911年(宣統3年)に卒業し、湖北陸軍第三中学第2期生となった。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、廖磊も革命派として参戦し、清朝軍との戦いで負傷している。中華民国成立後の1913年(民国2年)に陸軍第一予備学校に入学、その翌年には保定陸軍軍官学校に進学して第2期生となった。1916年(民国5年)6月に卒業している。卒業後は湖南省の湘軍(湖南陸軍)に配属され、軍功を重ねて1920年(民国9年)には団長にまで昇進した。 1926年(民国15年)6月、湘軍の唐生智が国民革命軍に易幟して第8軍軍長となると、これに属していた廖磊も第8軍第4師副師長に任ぜられた。廖も唐に従って北伐に参加し、北京政府軍との戦いで軍功をあげた。10月に武漢を攻略すると、第8軍は3個軍を抱える集団軍に拡充され、廖はそのうちの1軍である第36軍で第1師師長となっている。1927年(民国16年)10月、寧漢戦争が勃発すると、廖は唐生智に従い新広西派の李宗仁・白崇禧らと戦った。しかし唐は敗北して下野し、廖は湖北省に留まって白に降伏、新広西派に組み込まれることになる。その結果、軍の再編に伴い廖は国民革命軍第36軍軍長に昇進した。
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湘軍での台頭
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郷紳の家庭に生まれる。初めは旧学を学んだが、1907年(光緒33年)に蔡鍔が創設した広西陸軍小学に入学する。1910年(宣統2年)、湖北第3陸軍中学に進学して第2期生となり、その翌年には武昌起義(辛亥革命)に革命派として参加した。その後、帰郷して梧州で軍械局局員となっている。 1913年(民国2年)、保定陸軍軍官学校第1期生として入学し、この時に白崇禧と同学になった。翌年末に卒業し、帰郷して広西軍に入隊、護国戦争にも従軍している。1916年(民国5年)、所属していた連の連長が湖南軍(湘軍)に転じたため、李も湘軍に加入した。その後、保定陸軍軍官学校で同学だった唐生智の配下となり、護法運動に関連する様々な戦役に参戦、順調に昇進した。1924年(民国13年)、湘軍第4師第8旅旅長に任ぜられている。 1926年(民国15年)6月、唐生智が国民革命軍の序列に加わったことに伴い、李品仙は第8軍第3師師長に任ぜられた。北伐に際しては、湖南省各地の攻略と湖北省での呉佩孚軍撃破に貢献している。翌年2月、第8軍副軍長、さらに4月には軍長に昇進し、武漢三鎮衛戍総司令や湖北省政府委員も兼任した。上海クーデター(四・一二政変)が勃発すると、蒋介石を支持して中国共産党の粛清に従事している。
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湘軍での台頭
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長沙長郡中学に入学していたが、辛亥革命勃発後は湖南陸軍(湘軍)第1師に加入した。その後、陸軍第二予備学校に入学・卒業し、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科に進学している。このとき、何鍵と同期であった。1916年(民国5年)に卒業して湖南に戻った。 1917年(民国6年)に孫文(孫中山)により護法運動が開始され、北京政府の段祺瑞が鎮圧のために大軍を南方へ派遣してくる。劉建緒は何鍵と共に護法運動を支持する湘軍総司令程潜の配下となり、北軍を迎撃した。1919年(民国8年)、何と共に唐生智配下に転じ、趙恒惕の派閥に属することになった。1923年(民国12年)の譚趙之戦において、劉は譚延闓派の蔡巨猷軍撃破に貢献、これにより第27団団長に昇進している。 1926年(民国15年)夏、唐生智が国民革命軍に易幟し、第8軍軍長に任命されると、何鍵は同軍第1師師長、劉建緒は第1師第4旅旅長に昇進した。劉率いる旅は武漢攻略で軍功をあげ、翌年4月には何率いる第35軍で第2師師長兼副軍長に昇進している。まもなく、唐が反蒋介石戦争(寧漢戦争)に敗北・下野したため、何と劉は新広西派(新桂系)と和解、湖南に駐屯した。その後、劉は湖南清郷第3区指揮官代理、第19師副師長、湘贛両省剿匪総指揮部第5路総司令を歴任している。 新広西派が蒋介石と対立する傾向を強めると、何鍵と劉建緒は蒋介石に拠る姿勢に転じる。同年2月に何鍵は湖南省政府主席に任ぜられ、劉建緒は第19師師長に昇進した。蒋桂戦争では劉は討逆軍第4路軍第2縦隊司令に任ぜられ、新広西派の軍勢と交戦している。1930年(民国19年)秋に第28軍軍長に昇進し、第1次中国共産党(紅軍)掃討(1930年12月)、第2次掃討(1931年4~5月)に参加する。1933年(民国22年)7月には、贛粤湘鄂剿匪西路軍第1縦隊司令として第5次掃討に参加した。
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湘軍での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:46 UTC 版)
最初は学問を志し、1906年(光緒32年)には湖南高等学堂予科まで進学した。しかし翌年、軍人の道に転じて湖南陸軍小学に転入し、さらに武昌陸軍第三中学に進学した。この間に中国同盟会にも加入している。 中華民国成立後の1914年(民国3年)、保定陸軍軍官学校第2期歩兵科に進学し、この時に国民党に加入している。卒業後は湖南省に戻り、湖南陸軍(湘軍)で昇進を重ねた。また、この時から上官が唐生智となり、以後、唐の信任を受けてその腹心となる。1923年(民国11年)冬に唐が湘軍第4師師長兼湖南善後督弁に昇進すると、周斕は同師参謀長兼同師軍官講習所教育長に任ぜられた。1925年(民国14年)、周は湘軍第5旅旅長に昇進した。 1926年(民国15年)6月、唐生智が国民政府に易幟し、国民革命軍第8軍軍長に任命されると、周斕は同軍教導師師長となった。同年9月から10月にかけて唐に随従して北伐に参戦し、武昌攻略に関わっている。また1927年(民国16年)1月末、唐の地位を脅かすと見られ、かつ、北京政府との内通の疑いもあった国民革命軍第12軍軍長袁祖銘を、周は偽って歓迎して謀殺した。2月、周は第36軍副軍長兼教導師師長に昇進し、4月には中央軍事政治学校長沙分校常務委員にも任ぜられた。さらに同年6月からは、唐から湖南省政府主席代理を委ねられ、土地庁庁長や軍事庁庁長も兼ねている。
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