北京時代
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帰国後は、杭州と紹興の中学校教師として生物学の教師として過ごし、1912年中華民国政府が成立すると、教育部の事務官の職位に就き北京に移り住んだ。北京での最初の数年間は、依然として隠遁者を演じており、もっぱら中国文学の典籍研究に没頭することで忙しい日々を送っていた。袁世凱ら軍閥が主導権を争う混乱した政治状況に失望したからといわれる。しかし、彼の文学への野望は、文学革命によって再び蘇った。日本留学時代の友人であった銭玄同から要望され、雑誌『新青年』の1918年5月号に、小説『狂人日記』を発表した。『新青年』は、「民主と科学」をスローガンとして1915年に創刊され、文学革命の中核となった。魯迅は、この小説の中で、表では礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘し、「真の人間」となることを説いたと井ノ口後掲書は指摘する。同書は続けて、「儒教」という暗黒の伝統社会とその一員である自己を否定することで、未来の子供たちには自分たちがこれまで経験したことのない人間らしい生活を準備しようとする魯迅の精神と彼の進化論が横たわっているとする。 翌1919年には、『孔乙己』と『薬』の2つの小説を寄稿した。『狂人日記』がその一人称を用いた文体と食人批判という内容が社会に衝撃を与えたが、口語文としての技法や物語構成において未熟だったのに対して、『孔乙己』と『薬』は、文体・構成とも優れており、魯迅の作家としての実質的なデビューは『孔乙己』と『薬』であると後掲藤井書は指摘する。作家魯迅の最も優れた小説は、第1集の『吶喊』と第2集の『彷徨』に含まれている。散文詩集『野草』とあわせて、これらの作品は、彼の創作力が最も充実していた北京在住時代に書かれている。また彼は、中国語の小説では一般的でなかった語りのモデルを、自作において様々に試みている。代表作『阿Q正伝』(1921年)では章回小説のスタイルを一見踏襲しながら、国民性の中に潜む卑怯や惰弱、軽率を阿Qという形象に結晶させ、また、『孔乙己』(1919年)、『傷逝』(1925年)では物語る主体である「私」の物語内容に対する認識や責任のあり方を問い、物語を聞く読者(知識人層)にも同じ問いを突き付けた。1920年秋から1926年夏まで、北京大学ついで北京女子師範学校の講師をつとめ、中国小説史を講じる一方、『祝福』をはじめとする短編小説や散文詩を執筆発表した。しかし、1925年には北京女子師範大学で学園紛争が起こり、学生処分に反対する魯迅は処分派の論者と大論争を展開、これを機に彼は雑文(論争文)に力を注ぐようになる。1926年3月、日本の内政干渉に強硬な態度を採るよう政府に求めよと抗議する学生・市民に対し、軍隊が発砲して47名が死亡する「3.18事件」が起きると、魯迅は政府を激しく批判した。これに対し軍閥政府は魯迅を含め50数名を指名手配者としてリストアップした。彼は、日本人やドイツ人が経営する病院に潜伏を余儀なくされた。 避難生活は5月には終わるが、その年8月北京を離れ、福建省にある厦門大学の中国文学の教授として迎えられた。しかし、当時人口が11万7000人足らずの厦門は、魯迅にとって居心地の良いものでなく、翌1927年1月には、北京女子師範大学の教え子であった許広平のいる広州に移り、中山大学文学系の主任兼教務主任の職に就いた。広東省の省都である広州の当時の人口は81万人、中国5番目の大きさの都市であった。中山大学助手となった許と、郊外の新築マンションで別室ながらも同じユニットに住み始めた。ただし、この町でも反共クーデターが起こり、多くの学生達が逮捕され、虐殺されてゆく中、精一杯の抗議として、中山大学の職を辞した。
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