北京政府時代の活動
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富裕な家庭に生まれ、初めは学問を志し、1903年(光緒29年)に秀才となった。しかし軍人の道に転じて、1907年(光緒33年)、四川軍事講習所に入学し、翌年に四川陸軍速成学堂に進学した。同期生には劉湘、楊森、唐式遵、潘文華などがおり、後に四川軍において「速成系」と呼ばれる派閥を形成することになる。卒業後は四川陸軍に加入した。 中華民国成立後も、王纉緒は引き続き四川軍内で昇進を重ね、1915年(民国4年)12月からの護国戦争では、北京政府側の劉湘配下として戦う。1918年(民国7年)4月、川軍第2師第8団団長となり、1920年(民国9年)3月からは楊森配下に転じて、5月に旅長に昇進した。1922年(民国11年)6月、劉湘派の第2軍軍長となった楊森に従い、熊克武派の第1軍軍長但懋辛との戦い(「一、二軍之戦」)を開始したが、第1軍の前に大敗し、楊・王は武漢の呉佩孚を頼って逃亡した。以後、呉の援助を受けて、楊・王は軍勢を回復していく。 1923年(民国12年)7月、北京政府から四川善後督弁に任命された劉湘に楊森・王纉緒も協力し、南方政府派の熊克武を撃破した。翌年3月、王は北京政府から陸軍少将に任ぜられ、6月、陸軍中将銜を授与された。王は楊から成都市姿勢督弁にも任ぜられている。1925年(民国14年)、楊が四川統一の戦いを開始すると、王は第1師師長兼北路総指揮に任ぜられる。しかしこの頃になると、王は楊の権力独占や縁故政治に不満を抱くようになる。劉湘が第16師師長兼四川塩運使の地位をもって王への篭絡を行うと、王もこれに応じて楊に反旗を翻し、楊を敗退させた。その後、王は実際に第16師師長兼四川塩運使に任ぜられている。
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北京政府時代の活動
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秀才の家に生まれる。1902年(光緒28年)、張之洞が創設した新式学堂である武昌湖北省五路高等小学堂に入学した。後に張からその才識を評価され、1904年(光緒30年)に公費でアメリカに留学した。学業を重ねた後に、1908年にペンシルベニア大学に入学し、政治学を専攻する。1911年、優秀大学生の栄誉称号を獲得し、同年6月には大学院に進学した。また留学期間中はジャーナリストとしても活動している。 辛亥革命勃発の報を聞くと、郭泰祺は1912年(民国元年)に帰国し、湖北軍政府外交股長に任命された。同年8月、国民党が結成されると、これに加入している。翌年2月、黎元洪が副総統に任ぜられると、郭は英文秘書としてこれに随行し、北京入りした。1916年(民国5年)6月、袁世凱死去に伴い、黎元洪が大総統に昇格すると、郭は高等顧問兼外交部参事に任ぜられている。翌年7月、張勲復辟が起き、黎が失脚すると、郭も下野した。その後は湖北省に戻り、湖北方言学校や武昌国立外語学校、武昌商科大学で校長をつとめる。
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北京政府時代の活動
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1906年(光緒32年)、無錫初級師範学校に入学し、翌年、上海法政講習所に進学した。1908年(光緒33年)、日本に留学し、最初に法政大学政治科に入学し、後に明治大学法政科に転入した。1911年(宣統3年)に卒業・帰国して法科挙人となり、公立蘇州法政専科学校の教員となっている。 1912年(民国元年)、北京政府財政部財政討論会会員となり、後に江蘇省財政視察員に任ぜられた。翌年には、財政部国税庁籌備員、幣制委員会会員、編纂処主任に任ぜられた。同年9月、財政部庫蔵司司長も兼任し、11月に同部会計司司長に異動する。1914年(民国3年)2月、署理財政部参事となり、5月、財政部賦税司司長代理も兼ねた。1915年(民国4年)、全国官産処会弁を兼ねる一方で、私立民国大学や公立法政専科学校、財政講習所で講座を開いた。1920年(民国9年)10月、鎮江関監督となる。翌年、ワシントン会議に代表団専門員として随行した。
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