『戦争と革命の放浪者 二葉亭四迷』
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「亀井秀雄」の記事における「『戦争と革命の放浪者 二葉亭四迷』」の解説
『戦争と革命の放浪者 二葉亭四迷』(新典社、1986年)は二葉亭四迷の評伝である。 亀井は、論の中で二葉亭を呼ぶにあたって「二葉亭の長谷川辰之助」または「辰之助」という呼称を選択し、辰之助が1903年(明治36年)に北京の警務学堂の提調代理の職を辞して日本へもどるシーンから起稿した。警務学堂は清朝政府が近代的な警察官を養成するために作った学校であり、辰之助と同じ時期に、東京外国語学校で清語を学んだ川島浪速が清朝政府の依頼で監督を務めていた。辰之助は1902年、川島浪速に請われて提調代理を引き受けたが、学堂の職員とそりが合わず、日本へ引き上げざるを得なかった。亀井は辰之助の北京時代の日記に出てくる人名や、符帳めいたメモを解読しつつ、辰之助が極東におけるロシアの動きを探る諜報活動を試みていた事実に迫っている。 東京にもどった辰之助は大阪毎日新聞東京出張員となり、二葉亭四迷の名前で、ロシア文学の翻訳や『其面影』『平凡』などの創作の分野で成果を上げた。しかし彼は、自分のロシア語能力を政治や外交の世界で生かしたい希望を諦められず、亡命したポーランドの革命党員との接触を保ち、ロシアの動向を注視し続けた。亀井は、辰之助が東京朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに派遣され、結核をこじらせて、日本へ帰る途中、インドのベンガル湾上の船内で客死するまでを、辰之助の立場に即して共感的に描いている。
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