明朝のハミル攻略とは? わかりやすく解説

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明朝のハミル攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:06 UTC 版)

ビルゲ・テムル」の記事における「明朝のハミル攻略」の解説

1368年(至元28年洪武元年)、朱元璋明朝建国して洪武帝称し大元ウルス首都大都陥落させたものの、黄河以北の地の大部分モンゴル勢力圏取り残されたままであった。そこで洪武帝モンゴル遠征並行して西北方の河西地方(タングート地方)にも出兵し、洪武5年(1372年)には北方ではココ・テムル率いモンゴル軍大敗したものの、西方では陝西甘粛地方攻略したココ・テムル率いモンゴル軍大敗して以来明朝対外進出はやや低調であったが、洪武13年(1380年)より西方への進出再開された。甘粛都督濮英この年4月チュベイの弟のトク・テムル始祖とする柳城王家の軍を急襲して柳城王を捕らえハミルに至る進軍路を確保した濮英翌月チギンにまで兵を進め、豳王イリンチン(亦憐真)とその配下の者達を捕虜とした。その二ヶ月後に濮英は苦峪に至りビルゲ・テムルのボラド・テムル(Bolad Temür)の息子のセンゲシュリ(Senggeširi/省哥失里)王、アジャシュリ(Aǰiri/阿者失里)王及びその母を捕虜としたが、直接ハミル攻撃することなく帰還した。この事件経てビルゲ・テムルは豳王位継ぎ、翌1381年にはアラーウッディーン(阿老丁)を使者として明朝派遣している。 この頃ハミルではビルゲ・テムルの他にビルゲ・テムルのはとこであるグナシリという王族がおり、明朝にも独自に使者派遣するなどよく知られ人物であったハミルは豳王ビルゲ・テムルグナシリの下で安定しており、それまで西方進出携わってきた濮英東方戦線転属したこともあって独立保ち続けていた。ところが、洪武21年(1388年)に北元ウスハル・ハーンブイル・ノールの戦い大敗しその後アリクブケ家のイェスデル弑逆されるという事件が起きると、ハミルをめぐる情勢一変したウスハル・ハーンという後ろ盾失ったハミル一帯チャガタイ諸王家動揺し洪武23年(1390年)にはハミルグナシリが、洪武24年(1391年)には沙州エルケシリが、それまでなかった明朝への朝貢開始したハミル動揺察知した明朝はこれにつけ込んでハミル攻略する決意固め、同1391年に劉真・宋晟らに命じてハミル急襲させた。劉真らは涼州よりハミル至り夜に乗じてハミル奇襲し、これを陥落させた。この時グナシリのみは300余り部下とともに逃れたが、豳王ビルゲ・テムル始めとする多くの者が殺された。

※この「明朝のハミル攻略」の解説は、「ビルゲ・テムル」の解説の一部です。
「明朝のハミル攻略」を含む「ビルゲ・テムル」の記事については、「ビルゲ・テムル」の概要を参照ください。

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