明朝 - 清朝初期とは? わかりやすく解説

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明朝 - 清朝初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 06:38 UTC 版)

中国のキリスト教」の記事における「明朝 - 清朝初期」の解説

16世紀にはいると、大航海時代流れにのってヨーロッパ宣教師たち東アジア到来したフランシスコ・ザビエルは二年半滞日で「日本人キリスト教徒にするには中国人キリスト教徒にするほかない」と考え、自ら中国宣教試みたが、果たせ上川島病没した。東インド管区巡察アレッサンドロ・ヴァリニャーノザビエル遺志継いで中国宣教実現図りヨーロッパ人宣教師中国語中国文化マスターしたものを宣教派遣するという大方針を立てた。この計画のために最初に選ばれミケーレ・ルッジェーリ(羅明堅)は1579年マカオ到着して中国語学び始め3年後にはマテオ・リッチ利瑪竇)がこれに加わったリッチらは苦労の末に中国土を踏み、自ら中国名名乗り中国儒者服装をして中国文化理解つとめた彼のやりかたは後のイエズス会中国宣教師たち引き継がれていく。リッチ1601年念願北京入り果たし知識人たちと交わったリッチ1610年没するまでに多く教義書、科学書漢訳し、没後万暦帝によって墓所与えられた。 イエズス会士たちは以後明朝清朝宮廷中心に活躍しキリスト教宣教しながら西洋最先端科学知識惜しみなく中国伝えたリッチ以降著名なイエズス会員としては、明の宮廷西洋科学伝えたサバティーノ・デ・ウルシス(熊三抜)、明末および清初宮廷暦法伝えたアダム・シャール湯若望)、康熙帝信頼厚く工部侍郎に任ぜられたフェルディナント・フェルビースト南懐仁)、フェルビーストの後を継ぎ康熙帝伝』を著したジョアシャン・ブーヴェ(白晋)、ネルチンスク条約締結において清朝側の代表としてロシア交渉したジャン・フランソワ・ジェルビヨン(張誠)およびトマス・ペレイラ(徐日昇)、康熙帝側近として20年以上仕えたドミニク・パルナン(巴多明)、実測によって『皇輿全覧図』を完成させたジャン・バティスト・レジス(孝思)、三代皇帝仕えて多く絵画残したジュゼッペ・カスティリオーネ郎世寧)、『孫子』呉子『司馬法』などをフランス語訳によってヨーロッパ紹介したジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)などがあげられる17世紀後半には清露国境紛争捕虜となったロシア人コサック八旗鑲黄旗編入されて(オロス・ニル)北京などに入植し正教再度伝来した。しかし、フランシスコ会ドミニコ会などがイエズス会適応政策批判イエズス会中国における偶像崇拝容認していると教皇庁訴えた。これが典礼論争である。欧州各国王権が強まる中で国を超えて活動しながら教皇忠誠を誓うイエズス会危険視され、これを機会総攻撃を受ける。典礼論争単なる宗教問題ではなく政治問題でもあった。1773年中国におけるイエズス会解散追い込まれ宣教活動終止符を打つことになる。一方で信仰がオロス・ニルに限定されていた正教会存続しキャフタ条約に基づき司祭派遣されていた。

※この「明朝 - 清朝初期」の解説は、「中国のキリスト教」の解説の一部です。
「明朝 - 清朝初期」を含む「中国のキリスト教」の記事については、「中国のキリスト教」の概要を参照ください。

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