明朝 - 清朝初期
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「中国のキリスト教」の記事における「明朝 - 清朝初期」の解説
16世紀にはいると、大航海時代の流れにのってヨーロッパの宣教師たちが東アジアへ到来した。フランシスコ・ザビエルは二年半の滞日で「日本人をキリスト教徒にするには中国人をキリスト教徒にするほかない」と考え、自ら中国宣教を試みたが、果たせず上川島で病没した。東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノはザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図り、ヨーロッパ人の宣教師で中国語と中国文化をマスターしたものを宣教に派遣するという大方針を立てた。この計画のために最初に選ばれたミケーレ・ルッジェーリ(羅明堅)は1579年にマカオに到着して中国語を学び始め、3年後にはマテオ・リッチ(利瑪竇)がこれに加わった。 リッチらは苦労の末に中国の土を踏み、自ら中国名を名乗り、中国の儒者の服装をして中国文化の理解につとめた。彼のやりかたは後のイエズス会中国宣教師たちに引き継がれていく。リッチは1601年に念願の北京入りを果たし、知識人たちと交わった。リッチは1610年に没するまでに多くの教義書、科学書を漢訳し、没後万暦帝によって墓所を与えられた。 イエズス会士たちは以後、明朝と清朝の宮廷を中心に活躍し、キリスト教を宣教しながら、西洋の最先端の科学知識を惜しみなく中国に伝えた。リッチ以降の著名なイエズス会員としては、明の宮廷に西洋科学を伝えたサバティーノ・デ・ウルシス(熊三抜)、明末および清初の宮廷で暦法を伝えたアダム・シャール(湯若望)、康熙帝の信頼厚く工部侍郎に任ぜられたフェルディナント・フェルビースト(南懐仁)、フェルビーストの後を継ぎ『康熙帝伝』を著したジョアシャン・ブーヴェ(白晋)、ネルチンスク条約締結において清朝側の代表としてロシアと交渉したジャン・フランソワ・ジェルビヨン(張誠)およびトマス・ペレイラ(徐日昇)、康熙帝の側近として20年以上仕えたドミニク・パルナン(巴多明)、実測によって『皇輿全覧図』を完成させたジャン・バティスト・レジス(雷孝思)、三代の皇帝に仕えて多くの絵画を残したジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)、『孫子』『呉子』『司馬法』などをフランス語訳によってヨーロッパに紹介したジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)などがあげられる。17世紀後半には清露国境紛争で捕虜となったロシア人コサックが八旗の鑲黄旗に編入されて(オロス・ニル)北京などに入植し、正教が再度伝来した。しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応政策を批判、イエズス会は中国における偶像崇拝を容認していると教皇庁へ訴えた。これが典礼論争である。欧州各国の王権が強まる中で国を超えて活動しながら教皇に忠誠を誓うイエズス会は危険視され、これを機会に総攻撃を受ける。典礼論争は単なる宗教問題ではなく、政治問題でもあった。1773年に中国におけるイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終止符を打つことになる。一方で、信仰がオロス・ニルに限定されていた正教会は存続し、キャフタ条約に基づき司祭も派遣されていた。
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