明朝皇室
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朱載坖(隆慶帝)(演:巫剛(中国語版)【※友情出演】) 明朝第13代皇帝。嘉靖帝の息子。万暦帝の父親。住まいは乾清宮。先朝の弊害を取り除くなど、その治世において一定の功績を挙げ、自身も比較的倹約家であった。しかし、晩年は女色に耽って国政を乱し、さらには丹薬の飲み過ぎで自身の身体を衰弱させた。最後は、愛妾・奴児花花(ヌルファファ)の急死に激しく衝撃を受け、悲痛のあまり卒倒し、急死した。無能ではないが凡庸な君主。 朱翊鈞(万暦帝)(演:梅年佳※青年期、王琦※少年期) 明朝第14代皇帝。隆慶帝と李太后(李彩鳳)の息子。本作のキーパーソン。住まいは乾清宮。父の死後、僅か10歳で即位。少年期は、聡明な性格で聞き分けが良く、英明果断な君主であった。しかし青年期になると、金遣いが荒くなったほか、傍若無人で冷酷な暗君に豹変。師・張居正とも、当初は極めて良好な信頼関係にあり、張居正の政治改革を、母・李太后と共に全面的にバックアップしていた。だが、青年期に入ると、張居正との対立を暗に深めはじめ、最後は張居正やその一族郎党に対して、残忍卑劣な弾圧・粛清を行った。
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明朝皇室
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朱棣(永楽帝)(演:唐国強) 朱元璋の四男。燕王→明朝皇帝(明成祖)。鄭和の主君であり、そのよき理解者・後見者でもある。靖難の役で勝利をおさめ、皇帝に即位。鄭和の大航海・『永楽大典』の編纂・南京から北京への遷都・モンゴル遠征など、数々の大事業を行い、明朝の盛世をつくりあげた。武将としても勇敢で、靖難の役では果敢に前線で奮戦した。皇帝としては、厳格さと寛容さの両面を兼ね備え、国内と海外の平和、民の安寧、大明の繁栄などのことを常に懸念している。名君と崇められる一方で、忠言に耳を傾ける心も持ち続け、大局を見て諸事を処断し、国の繁栄のために精力的に政務に励んだ。最後は、モンゴルを平らげるも、陣没。鄭和の航海事業は、永楽帝の存在なしでは成立しなかったといってもいいような存在。 朱高熾(洪熙帝)(演:章劼) 朱棣(永楽帝)の長男。母は徐皇后。世子→明朝皇太子→明朝皇帝。靖難の役では、本拠地の北平を防備し、功を立てる。弟の漢王・朱高煦とは後継者の座などを巡って争う。鄭和の大航海には反対姿勢を取っているが、父・永楽帝に反発して波風をたてることを恐れ、表向きは従順に従っている。永楽帝の死後即位し、鄭和の航海事業の一切を停止。鄭和を重罪人として処置しようとするも、最終的に失敗。即位から10か月ほどで病死した。 朱高煦(漢王)(演:楊帆) 朱棣の次男。母は徐皇后。世子→漢王。靖難の役で父・永楽帝に従って活躍し、大功を立てる。父・永楽帝から可愛がられる。兄の朱高熾と後継者の地位を争うが敗れる。市舶司の長官を担当し、汚職や密貿易などで不義の財を蓄えるが、後に反乱未遂の罪も併せて糾弾され、失脚。山東の封地に流罪となった後も、再起を図って水面下で計画を進める。父・永楽帝の死の直前に北京に呼び戻され、北京で反乱の計画を立てるが、未然に計画は漏れ、即位した宣徳帝によって捕らえられ、処刑された。鄭和の大航海に対しては強く賛成しているが、それは父の歓心を買うためにすぎない。 朱権(寧王)(演:李淇(中国語版)) 朱元璋の十七男。寧王。靖難の役で兄の燕王・朱棣に協力し、南京攻めにおいて大きな役割を果たした。永楽帝とは強い信頼関係にあるが、鄭和の大航海に関しては、断固として強い反対姿勢をとる。後に他の兄弟と徒党を組んだことや、妄言で朝廷を混乱させたことなどを永楽帝に厳しく指摘され、咎められるが、1年間の俸禄没収という微罰で済まされた。罪を糾弾された後は兵権を返上して朝政から距離を置いた。明朝のモンゴル遠征(北伐)における資金不足問題に際して、兄弟たちと共に私財を投げ打ち、寄付を行った。永楽帝の死後、毒酒を飲んで自害。最愛の兄の後を追った。 朱瞻基(宣徳帝)(演:謝震偉) 朱高熾(洪熙帝)の長男。永楽帝の初孫。皇長孫→明朝皇太子→明朝皇帝。聡明な性格で、祖父の永楽帝から可愛がられ、一目置かれている。鄭和の大航海には賛成派で、洪熙帝が鄭和の暗殺を図った際は、それを密かに阻止した。父の死後即位し、鄭和の大航海事業を再開。一方で、謀反を企んだ叔父の漢王・朱高煦を捕らえ、処刑した。 朱允炆(建文帝)(演:藺達諾) 朱元璋の孫。皇太子朱標の次男。父・朱標の死後、皇太孫となり、祖父・朱元璋の死後即位。朱元璋時代の朝廷の悪しき風潮・弊政を改め、文治に重きを置いた治世を目指し、「建文」と改元。聡明だがやや軟弱で優柔不断な性格。腹心の斉泰・方孝孺らの進言に従い、自身の叔父にあたる各地の諸王を排除するが、最も信頼する叔父・朱棣(燕王)には手を下せなかった。やがて靖難の役が勃発し、反乱の鎮圧に心をひどく悩ます。燕王・寧王の連合軍が南京に攻め込むと、自害しようとしたが、宦官の王忠の助けで宮城を脱出し、逃亡。剃髪して僧侶となり、行方を暗ませて生き永らえた。
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