明末清初の民窯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:05 UTC 版)
明末から清初にかけて、景徳鎮の民窯では、外国への輸出向けにさまざまなタイプの磁器が量産された。1602年にオランダ軍艦がポルトガルの商船を拿捕したところ、船内に大量の中国磁器を発見し、これが中国磁器がヨーロッパへ向けて大量輸出されるようになるきっかけであった。万暦期に主にヨーロッパへ輸出された大作の青花は独特の様式をもち、これらを芙蓉手と称する。芙蓉手の典型的な器種は大盤であるが、この種の盤は、見込みの中央の円窓内に主文様を描き、周囲には蓮弁文の中に副文様を描いている。これらを全体として見た時に芙蓉の花のように華やかであるところから芙蓉手の名がある。この種の青花の盤は、17世紀のオランダなどのヨーロッパの室内画・静物画の画中にしばしば描き込まれており、16世紀末から17世紀、中国でいう万暦年間の作であることがわかる。同じ頃、日本、東南アジア、ヨーロッパなど国外輸出向けに大量生産された五彩磁器がある。失透性の白地に赤と緑を主とした上絵具で簡略なタッチで図柄を描いたこの種の磁器を日本では呉州赤絵(ごすあかえ)、欧米ではスワトウ・ウェア(汕頭の焼物の意)と称する。かつて、この種の焼物の産地は不明で、漠然と福建省方面の窯の作とされたり、景徳鎮系の民窯の作ともいわれていた。しかし、1990年代になって、福建省博物館の栗建安らによる調査の結果、福建省平和県の窯址からこの手の磁器の破片が発掘され、呉州赤絵は福建省南部に分布する窯群(漳州窯)の作であることが判明した。 日本では室町時代以降、茶の湯の流行とともに、天目などの唐物の茶道具がもてはやされるようになったが、桃山時代になると、千利休が大成した侘び茶の流行とともに美意識が変化し、草庵の風情に合致した、侘びた茶器が求められるようになった。こうした時代に日本の茶人が景徳鎮に注文して作らせたのが古染付(こそめつけ)と呼ばれる一群の青花磁器である。古染付は天啓(1621 - 1627年)頃に景徳鎮民窯で作られたもので、皿、水指、香炉、香合などがある。変形の皿(馬形皿、魚形皿、葉形皿など)や香合など日本的な器形のものが多いが、図柄は中国風の人物や山水などが描かれている。絵付は簡略で、胎土と釉の収縮率の違いから、口縁部などの釉が剥げてしまっているもの(これを「虫食い」と称する)が多い。同じく日本の茶人が注文した青花の器としては祥瑞(しょんずい)と呼ばれる一群がある。これは主に崇禎年間(1628 - 1644年)に作られたもので、古染付に比べると、磁土、釉ともに精製されている。器種は茶碗、水指、反鉢などに限られ、現存作品は少ない。祥瑞の名の由来は、この種の作品の中に「五良大甫呉祥瑞造」という銘を有するものがあることによる。「五良大甫呉祥瑞」とは、「呉家の五男の作」との意味である。これらの日本好みの磁器が誰によってどのように注文されたのかは、公式史料が残っておらず、明らかでない。近衛家に仕えた山科道安の日記『槐記』の享保14年(1729年)2月26日条に、茶会に用いられた引切(蓋置)について「南京ノ染付、遠州ノ好ニテ、大唐ヘ誂ヘ遣ハスノ由」云々とあり、大名茶人の小堀遠州がこうした中国製茶器の注文にかかわったのではないかと推察されている。 青花龍鳳文盤(万暦) 法花牡丹鳳凰文壺 明 青花花鳥文盤 明末(明山手) 青花人物文盤(芙蓉手)明末 黄地緑彩竜文盤 明 五彩花卉文水注 明(万暦) 五彩牡丹文盤 呉州赤絵 明末(民窯)
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