明末の画家たちとは? わかりやすく解説

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明末の画家たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「明末の画家たち」の解説

明末動乱期にさまざまな個性をもった画家多数登場した。呉彬(ごひん)は独特のデフォルメされた形態をもつ山水知られる丁雲鵬(ていうんぽう)は道釈人物仏教と道教人物)を得意とした。陳洪綬ちんこうじゅ)は独自の人物画知られ花鳥画もある。崔子忠(さいしちゅう)も人物画知られ陳洪綬とともに「南陳北崔」と称された。他にも米鍾(べいばんしょう)、藍瑛らんえい)、李流芳(りりゅうほう)、張瑞図ちょうずいと)、倪元璐(げいげんろ)、趙左ちょうさ)、沈士充(しんしじゅう)、従(しょううんじゅう)など多く画家がいる。彼らの多く職業画家でもある文人で、画風それぞれ個性的である。こうしたことから、「利家 = 呉派 = 文人画」「行家 = 浙派 = 職業画家」という二項対立図式明末においてすでに崩れていることがわかる。 呉彬(活動期間1601 - 1626年) - 福建莆田の人。もと職業画家で、1601年南京出て宮廷仕えたが、宦官魏忠賢批判したかどで捕えられ、以後動静知られていない奇怪な形態山水描いた丁雲鵬(1547 - ?年) - 安徽休寧の人。道釈人物画をよくし、詩文仏像製作にも携わった。 崔子忠(? - 1644年) - 山東萊陽の人。着色故事人物画よくした貧窮のうちに孤高の人生を送り1644年、明が滅亡すると、最期土室籠って餓死したという。 陳洪綬(1598 - 1652年) - 浙江諸曁の人。独特の風貌人物画描いた。明の宮廷出仕したこともあるが、社会腐敗憤り帰郷1644年明滅亡後、1646年一時出家するが、のち還俗した。悔遅(かいち)、老遅(ろうち)などと号したが、これらの号には明の滅亡後も生き残ってしまった(死に遅れた)との思い込められている。 米鍾(1570 - 1628年) - 長安の人。山水画と書をよくし、書は董其昌並んで「南董北米」と称された。 藍瑛(1586 - 1664/1666年頃) - 銭塘杭州)の人。浙派山水画藍瑛によって終わると評されている。 李流芳(1575 - 1628年) - 安徽歙県の人で江蘇嘉定住んだ。金箋に淡墨用いて独特の効果出した張瑞図(1570 - ?年) - 福建の人。書家として知られる。絹の代わりに絖本こうほんサテン)を用いて独特の墨色効果出した趙左(1573 - 1644年) - 華亭上海松江県)の人。呉派文人画諸派の中で派の祖とされる董其昌親交があり、その代作行ったことが知られる沈士充生没年不明) - 呉派文人画諸派の中で雲間派と称される趙左師事する従(1596 - 1673年) - 安徽蕪湖の人。崇禎期(1628 - 1644年)に副貢生という地位にあったが、清朝には仕えなかった。山水画をよくし、倪瓚黄公望師法した。呉派文人画諸派の中で姑孰派と称される趙左高山流水図』(上海博物館陳洪綬陶淵明図』(ホノルル美術館

※この「明末の画家たち」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「明末の画家たち」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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