明朝宗室の待遇の変化
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朱棣は皇帝となった後、6月18日に周王朱橚・斉王朱榑の爵位を回復した。その後、代王朱桂・岷王朱楩の爵位も回復した。永楽元年正月、周王・斉王・代王・岷王の四王を復帰させた。 6月26日には朱標の廟号である興宗を取り消して懿文太子とし、呂太后も懿文太子妃とした。 7月12日、建文帝の三人の弟をそれまでの王位から郡王に降格した。さらに11月には彼らが建文帝を止められなかったという理由で、朱允熥と朱允熞は庶民に落とされ、鳳陽に軟禁された。朱允熙は間もなく亡くなった。建文帝の次男の朱文圭も「建庶人」とされて鳳陽広安宮に軟禁され、55年後に朱允熥と一緒に英宗によって釈放された。 朱棣は建文帝の削藩に反対して挙兵したので、諸王の支持を得るため、即位後にはすぐに削られた藩王を回復させた。さらに褒賞として、宗室の品級を上げる制度改定を行った。洪武年間の規定では鎮国将軍(郡王(中国語版)の子)は三品、輔国将軍は四品、奉国将軍は五品、鎮国中尉は六品、輔国中尉七品、奉国中尉八品だった。しかし永楽帝はこれに加算して、「鎮國將軍從一品,輔國將軍從二品,奉國將軍從三品,鎮國中尉從四品,輔國中尉從五品,奉國中尉從六品」とした。 一方で、永楽帝は自分で武力で政権を奪取したことに鑑み、政権の安定のため、辺境の王は順次、内地へと改封し、それから諸王の兵権を削減していった。永楽元年に代王の護衛と官員を削った。永楽4年には斉王の護衛と官員を削り、ほどなくして廃して庶民とした。永楽6年に岷王の護衛と官員を削った。永楽10年に遼王の護衛を削った。永楽15年に谷王を廃して庶民とした。永楽19年に周王は情勢を見て、自ら護衛を返納した,洪武帝の時代に13人いた兵権を持つ親王のうち、永楽帝は6人の兵権を削った。これとあわせて、靖難の役の功臣には大封を与え、多くの経験を持つ武官を手元に確保することで、中央政権を強化し、中央と諸藩との軍事的な勢力比を根本的に変えた。 こうして永楽帝は建文帝の目的だったことを実現したが、目先の問題を解決しただけだった。永楽帝の次男の漢王朱高煦と三男の趙王朱高燧は依然として護衛を有していた。そして宣徳元年の朱高煦の乱(中国語版)は、親王が兵を持つ危険性を再度証明した。乱を平定した宣徳帝は、その威信でもって大部分の藩王たちに護衛を手放させ、宗室を統制下に置いた。以後、宗室と中央政権との矛盾点は、軍事的な緊張関係から、大量に増加した俸禄による財政圧力に変化していった。
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