明朝宗室の待遇の変化とは? わかりやすく解説

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明朝宗室の待遇の変化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:54 UTC 版)

靖難の変」の記事における「明朝宗室の待遇の変化」の解説

朱棣皇帝となった後、6月18日周王朱橚斉王朱榑爵位回復したその後代王朱桂・岷王朱楩爵位回復した永楽元年正月周王斉王代王・岷王の四王復帰させた。 6月26日には朱標廟号である興宗取り消して懿文太子とし、呂太后懿文太子妃とした。 7月12日建文帝三人の弟をそれまで王位から郡王降格した。さらに11月には彼らが建文帝止められなかったという理由で、允熥と允熞は庶民落とされ鳳陽軟禁された。允熙は間もなく亡くなった建文帝次男朱文圭も「建庶人」とされて鳳陽広安宮に軟禁され55年後に允熥と一緒に英宗によって釈放された。 朱棣建文帝の削藩に反対して挙兵したので、諸王支持を得るため、即位後にはすぐに削られ藩王回復させた。さらに褒賞として、宗室品級上げ制度改定行った洪武年間規定では鎮国将軍郡王中国語版の子)は三品、輔国将軍四品、奉国将軍は五品、鎮国中尉は六品、輔国中尉七品、奉国中尉八品だった。しかし永楽帝はこれに加算して、「鎮國將軍從一品,輔國將軍二品,奉國將軍三品,鎮國中尉從四品,輔國中尉從五品,奉國中尉從六品」とした。 一方で永楽帝自分武力政権奪取したことに鑑み政権安定のため、辺境の王は順次内地へと改封し、それから諸王兵権削減していった。永楽元年代王護衛官員削った永楽4年には斉王護衛官員削りほどなくして廃して庶民とした。永楽6年に岷王の護衛官員削った永楽10年に遼王の護衛削った永楽15年に谷王を廃して庶民とした。永楽19年周王情勢見て、自ら護衛返納した,洪武帝時代13人いた兵権を持つ親王のうち、永楽帝は6人の兵権削った。これとあわせて靖難の役功臣には大封与え多く経験を持つ武官手元確保することで、中央政権強化し中央諸藩との軍事的な勢力比を根本的に変えた。 こうして永楽帝建文帝目的だったことを実現したが、目先の問題解決したけだった永楽帝次男の漢王朱高煦三男趙王朱高燧依然として護衛有していた。そして宣徳元年朱高煦の乱(中国語版)は、親王が兵を持つ危険性再度証明した。乱を平定し宣徳帝は、その威信でもって大部分藩王たちに護衛を手放させ、宗室統制下に置いた以後宗室中央政権との矛盾点は、軍事的な緊張関係から、大量に増加した俸禄による財政圧力変化していった。

※この「明朝宗室の待遇の変化」の解説は、「靖難の変」の解説の一部です。
「明朝宗室の待遇の変化」を含む「靖難の変」の記事については、「靖難の変」の概要を参照ください。

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