フレグの旋回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:53 UTC 版)
遂に当時のイスラーム社会において最高の権威を誇るアッバース朝を屈服させたフレグは一旦アゼルバイジャン方面に行き休息した後、遠征の第三段階として1260年シリア・エジプト方面への侵攻を開始した。 かつての大国アイユーブ朝の権力はほとんどなく、まずダマスクスの君主アル・ナスィール・ユースフが敗れて捕虜となり二月にはアレッポが、四月にはダマスクスが陥落した。この時点でモンゴル軍は今までの軍に加えルーム・セルジューク朝、モスルのアタベク政権、キリキア・アルメニア王国、さらに十字軍の諸勢力さえもモンゴル軍に参集しており、当時エジプトにはクーデターで成立したばかりのマムルーク朝があったが、もはやモンゴル軍の侵攻を止めることは不可能に思われた しかし、アレッポを攻略したばかりの時に大ハーンモンケの崩御が伝えられフレグは「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))の時と同様撤退することを余儀なくされてしまう。この時点ではまだフレグは帝位を狙おうと考えていたとも言われるが、ともかくフレグはキト・ブカを残しアゼルバイジャン方面に進んだ。タブリーズに着いたところでクビライとアリクブケの抗争(モンゴル帝国帝位継承戦争)を聞き、もはや自分が帝位を狙うのは不可能だと悟ったフレグは代わりに「イランの地」に遠征軍を中核として自分の勢力を築こうと活動を始めた。 一方シリアに残留したキト・ブカは独自にアイユーブ朝を攻略し、さらにエジプトのマムルーク朝のムザッファル・クトゥズに対してもアイン・ジャールートの戦い(1260年9月3日)を挑んだが、反クトゥズ派のバイバルスらマムルークが帰参したために惨敗してしまう。この戦いの結果モンゴル軍の不敗神話は崩れフレグ率いる本隊もジョチ・ウルスとの対立で動けず、この後モンゴル軍の勢力がシリア以西に進むことはなく、逆にモンゴル軍を撃退したマムルーク朝はその基盤を強固なものとした。
※この「フレグの旋回」の解説は、「フレグの西征」の解説の一部です。
「フレグの旋回」を含む「フレグの西征」の記事については、「フレグの西征」の概要を参照ください。
- フレグの旋回のページへのリンク