ルーシ諸国の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:19 UTC 版)
詳細は「モンゴルのルーシ侵攻」を参照 1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン(旧リャザン)、コロムナが劫略された。1238年に入り2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けている。この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略されたと見られている。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。このころ総司令官バトゥはグユク、ブリらと論功行賞などで激しく対立。その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケは1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発した。 1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。またモンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。
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