ルーシ諸国のタタールのくびきからの脱却
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「モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「ルーシ諸国のタタールのくびきからの脱却」の解説
ルーシを名目上支配するキエフ大公国、およびルーシに割拠する諸公国に対するモンゴル侵入の影響は平等なものではなかった。キエフやウラジーミルのような従来の中心都市はモンゴルによる破壊から立ち直ることができなかった。北に遠く離れたノヴゴロドは侵略から免れたが、モンゴル侵入による大国崩壊後の空白に生まれたトヴェリやモスクワといった新たな勢力がノヴゴロドを圧迫した。 ルーシの多数の国の中でも、モスクワが北部ルーシおよび東部ルーシで権力を強めることができたのには、南部ルーシの大きな国々がモンゴルによって滅ぼされ立ち直らなかったことが大きな要因としてある。1327年、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが意図したバスカク(代官)制度復活に対し、トヴェリで民衆の暴動が起き、トヴェリ大公アレクサンドルがジョチ・ウルスに対する反乱に加わると、トヴェリの最大のライバルだったモスクワ公イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク・ハンとともにトヴェリを破り、これを徹底的に破壊した。こうしてモスクワ公国はライバルを倒し、イヴァン1世は1328年、ウラジーミルからモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功する。ウズベク・ハンからもトヴェリ討伐の功績から大公位を認められ、モスクワ公国はモスクワ大公国となった。モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思をジョチ・ウルスに伝え、ルーシ諸国に対してはジョチ・ウルスの意向を伝える立場になり、モスクワの権力はますます高まった。モンゴルの遊牧民はしばしばルーシの各地方を襲って略奪を行ったが、モスクワ大公の支配する土地に対しては一定の敬意を払った。こうして、貴族やその部下たちは比較的平和なモスクワ大公国に移住しようとし、ルーシ諸国もモスクワの庇護下に入ろうとした。 1380年のクリコヴォの戦いで、ドミトリイ・ドンスコイ率いるモスクワ大公国軍は、ママイ率いるジョチ・ウルス系政権(ママイ・オルダ)およびリトアニア大公国などの連合軍を破り、タタールのくびきからの脱却の第一歩を踏み出した。この戦いでモスクワの権威は高まったが、ジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュの攻撃によってドミトリイ・ドンスコイは再度ジョチ・ウルスに臣従することになった。モスクワ大公国がジョチ・ウルスへの貢納をやめるのは、1480年のウグラ河畔の対峙でイヴァン3世がアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後のことである。 ジョチ・ウルスは分裂したが、その末裔となった国家にはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シビル・ハン国、ノガイ・オルダなどがある。しかしすべて、モスクワ大公国から発展したロシア・ツァーリ国、あるいはその後のロシア帝国に滅ぼされた。 モンゴルがキエフ・ルーシを滅ぼさなかったとしたら、モスクワ大公国は、さらにロシア帝国は勃興することもなかっただろうという議論はしばしば提起されている。また、モンゴルによる侵入は大規模な殺戮を当初もたらしたものの、長期的に見ればその後のロシア・ウクライナ・ベラルーシ各民族の勃興に大きな影響を与えたといえる。
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