ルーシ社会へのモンゴルの影響
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「モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「ルーシ社会へのモンゴルの影響」の解説
歴史家らは、モンゴルの支配がルーシ社会に与えた長期的影響についてさまざまに議論してきた。古くからロシアなどではモンゴル支配の悪影響として、モンゴルがキエフ・ルーシを滅ぼし、古代から中世に掛けてのルーシの民族的一体性を崩壊させロシアやウクライナなどを分立させたこと、東洋的専制主義の概念をルーシにもたらしたこと、などが特に非難されてきた。しかしキエフ・ルーシは政治的にも文化的にも民族的にも一体の存在ではなくすでに分裂を始めており、モンゴルのキエフ・ルーシ打倒はすでに進行していた分裂を単に加速させたに過ぎないという見方もある。また、モンゴルによる支配が、モスクワ大公国の勃興だけでなく国家体制の整備にも強い影響を与えたという研究もある。モスクワ大公国は、貴族の封建的階層制度である門地制度(メストニチェストヴォ、Местничество)、広い国土に命令や通信を行き渡らせる駅伝制、人口調査制度、財政制度、軍事組織などをモンゴル帝国の支配システムから引き継いだ。 多くの歴史家が、モンゴルによるルーシ抑圧がいわゆる「西洋と東洋の狭間」の問題の大きな原因になったと見る。モンゴルの支配の影響で、ルーシでは東ローマや西欧からの隔離が続き、西洋で起こった大きな政治的・社会的・経済的改革や科学の発展の導入が遅れ、ロシアは西欧から200年分遅れた国になったという意識が生まれた。西洋からの隔絶によってロシアはルネサンスや宗教改革に影響されることもなく、さらにその後の中産階級の形成にも失敗した。 モンゴルのルーシ支配の時期、ルーシとモンゴルの支配階級の間では人的・文化的交流が盛んに見られた。1450年頃、モスクワ大公ヴァシーリー2世の宮廷では、大公のタタール人やその言葉に対する愛好から、タタール語の流行が起こり、貴族の中にタタール風の姓をつける者も現れた。また、ロシアのボヤール(大貴族)には、その祖先をモンゴル人やタタール人に遡ることができる家も多く、その家名にモンゴル語やタタール語の名残が見られることもある(たとえばゴドゥノフ家、アルセーニエフ家、チャーダーエフ家、ブルガコフ家、バフメテフ家)。17世紀のロシア貴族に関する調査では、15%以上がタタールほか東洋の血筋であった。その他、歴代のロシア正教会の人物にもキリスト教に改宗したモンゴル系・タタール系の人物は数多い。 法の分野では、モンゴルの影響により、キエフ・ルーシの時代には奴隷にしか適用されなかった死刑が広く行われるようになったほか、捜査でも拷問の使用が広まった。モンゴルによりモスクワ大公国に導入された刑では、裏切者に対する斬首、泥棒に対する焼印などがある。もっとも、同時期の西欧における刑罰・懲罰はモンゴルやロシアよりも過酷であった。 ロシア語は、タタール語などのテュルク諸語やモンゴル語から多くの単語、特に財政や金融に関わる単語を導入した。Деньги (お金)、Казна (国庫)、Таможенные (税関)、Барыш (利益)、Башмак (靴)などがこれにあたる。
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