江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役の意味・解説 

江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:21 UTC 版)

星野長太郎」の記事における「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」の解説

長太郎曾祖父にあたる星野8代耕平(星野七郎右衛門朋存;宝暦6年1756年)生〜天保元年1830年)没、74歳)は天明期(1781年1788年)、上州黒川郷(渡良瀬川上流渓谷沿い)の山中さんちゅう入口位置する水沼(後の勢多郡黒保根村、現桐生市黒保根町)の百姓代であった文化期(1804年1817年)には水沼名主務めようになった8代耕平は、江戸幕府11代将徳川家斉在任期にあたる文化5年1808年)、岩鼻代官所代官吉川左衛門)より管下天領幕府直轄領)の郡中取締役一人任命された。拝命した郡中取締役とは、代官所々の間に立って勢多郡山中入(さんちゅういり)18(後の勢多郡黒保根村東村山田郡大間々町)の農村風俗博奕・賭・通り者徒党無宿者喧嘩長脇差服装等)の乱れ是正し治安維持する役儀で、代官所への定期巡回報告取り押さえ報告訓戒裁定不審者監視優良表彰など主な仕事であった。耕平は、文政期(1818年1829年)には水沼名主分家譲り、自らは年寄となって幕府役儀注力した。 文化13年1816年)、8代耕平は足尾銅山吹所(製錬鋳造所世話役拝命し、苗字帯刀許された。耕平は武蔵国本庄宿名主戸谷半兵衛光寿ら3人と上野国の有力名主加部安左衛門兼重ら3人を合わせた6人衆の一人として老中勘定奉行裁可の下で初め苗字帯刀許された。この時6人衆が共に同管下足尾陣屋との深い関係から足尾銅山吹所世話役幕府直営足尾銅山資金面から支援する役儀)も拝命した。世話役加部戸谷は各金1,000両、他4人は各金750両、合計で5,000両を幕府上納した本庄宿中山道69次で最大宿場で、足尾銅山起点とするあかがね街道銅街道)の終端となる利根川平塚河岸(現伊勢崎市境平塚近く位置した銅山吹所で精製された丁ていどう)や輸出用棹銅足尾銭座鋳造され寛永通宝足字銭などが平塚河岸まで陸路運搬された。この平塚舟運積み換える中継拠点となっていた。足尾平塚河岸から下流関宿経て江戸川入り、更に中川(大落古利根川)、小名木川経て隅田川端の銅山江戸御役所江戸浅草屋町(現台東区浅草橋3丁目))まで高瀬船などの舟運運搬された。寛文貞享期(1661年1687年)が銅山全盛期であったが、元禄期(1688年1704年)には産激減により幕府運営資金難に見舞われた。鎖国中の日本では一時期最大輸出品であったため、幕府重大問題となった文化14年1817年)には休山状態に至った星野家では岩鼻代官所の命により、早くも4代彌兵衛寛永21年1644年)生〜享保3年1718年)没、74歳)の代より産量がピーク過ぎた足尾銅山財政支援銅山御用金運用銅山師への貸付等)する役儀担い彌兵衛はしばし水沼足尾銅山代官所岩鼻代官兼務)との間を往復した長太郎祖父9代長兵衛星野七郎右衛門朋寛;寛政3年1791年)生〜安政2年1856年)没、65歳)と続く10代彌平長太郎の父)が、郡中取締役足尾銅山吹所世話役などの役儀苗字帯刀特権受け継いだ長兵衛の代となる天保期(1830年1843年)には51町6反(154,800坪)の土地持高にして300石余を有して上州(現群馬県一国代表する豪農となった長兵衛幕府勘定所とも緊密な関係を築いて幕領支配一翼を担うまでの存在となり、天領山中18年寄役給人格(勤中騎差許)の待遇処せられた。 天保4年1833年)、9代長兵衛44歳)は、幕府老中水野出羽守忠成)の申し渡しにより上野国碓氷郡(後の群馬郡倉渕村川浦、現高市倉渕町)の川浦山幕府直轄御林御巣鷹山)における幕府御用材伐採事業大戸村加部共同請け負った。9代長兵衛経理として、吾妻郡大戸村(後の吾妻郡吾妻町、現吾妻郡東吾妻町)の名主加部安左衛門兼重(69歳)は現地差指として両名の全責任大規模且つ困難な事業遂行した杣人木挽筏師幕府ヒノキ木曽谷スギ林天竜川方面から手配した一部不足分無償百姓持林充てられた。川浦には幕府御用材搬出会所陣屋)が設営され、作業困難な秋冬期を除き幕府役人交代指揮監督にあたり請負3年余にわたった長兵衛息子金輔を常駐させ自分も度々ここに詰めて管理監にあたり江戸幕府御用材(現江東区毛利二丁目 猿江恩賜公園付近)にも足を運んだ命じられたのは御用材伐採製材から江戸小名木川通ず横十間川面した御用材納める一切仕事であった。川浦から江戸までの運搬は、烏川経て新町で本筏(総数116艘)を組み利根川下り通常9日間を要した御用材(主にスギケヤキ)は江戸城二ノ丸修復西ノ丸隠居焼失後の復旧再建使用された。御用材本数は9,266本。総支出額は3年間で5,388両に達したその内幕府負担分は2,800両のみで、差額星野らの負担となり献上金は2,500両を超えた天保の大飢饉最中甲州幕府直轄領)では天保騒動発生した国定忠治逸話の残る上州でも各地騒動勃発した幕府直轄領黒川郷では天保4年1833年)から飢饉はなはだしく困窮者が増え祖父9代長兵衛救済動いた々の至る所多数餓死者が出る悲惨な状況下、天保7年1836年穀物問屋価格引き上げ端を発した農民騒動起こった張札による打毀し呼びかけにより黒川山中入の々から数百名が徒党組んで繰り出した郡中取締役であった9代長兵衛は、大間々町の有力穀物問屋向かいつつあった群衆の各代表を呼び集めて必死に説得重ねた打毀し回避のため私財500両の提供を約束し以てその暴発未然阻止した長太郎の父彌平10代七郎右衛門朋信;文政7年1824年)生〜明治19年1886年)没、62歳)は飢饉の後、村民申し出協力により背後北側急傾斜地を切土南面盛土し、石垣擁壁として積み上げて宅地(管星院屋敷跡)を拡張造成した。南面テラス状に張り出し切り立った二段石垣の上建造され武家屋敷風の長屋門と、西側堂尻川囲まれ屋敷地により防御力格段に高められた。高台位置する上屋敷自分と家族居宅星野家本家屋敷)とし、従来敷地(旧水沼村役場敷地星光屋敷跡)には下屋敷を建て奉公人らの住まいとした。

※この「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」の解説は、「星野長太郎」の解説の一部です。
「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」を含む「星野長太郎」の記事については、「星野長太郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」の関連用語

江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの星野長太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS