江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役
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「星野長太郎」の記事における「江戸幕府の役儀拝命:幕府領郡中取締役と足尾銅山吹所世話役」の解説
長太郎の曾祖父にあたる星野家8代耕平(星野七郎右衛門朋存;宝暦6年(1756年)生〜天保元年(1830年)没、74歳)は天明期(1781年〜1788年)、上州黒川郷(渡良瀬川上流渓谷沿い)の山中(さんちゅう)入口に位置する水沼村(後の勢多郡黒保根村、現桐生市黒保根町)の百姓代であった。文化期(1804年〜1817年)には水沼村の名主を務めるようになった。8代耕平は、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の在任期にあたる文化5年(1808年)、岩鼻代官所(代官吉川栄左衛門)より管下天領(幕府直轄領)の郡中取締役の一人に任命された。拝命した郡中取締役とは、代官所と村々の間に立って勢多郡山中入(さんちゅういり)18ヵ村(後の勢多郡黒保根村・東村、山田郡大間々町)の農村風俗(博奕・賭・通り者・徒党・無宿者、喧嘩・長脇差・服装等)の乱れを是正し治安維持する役儀で、代官所への定期巡回報告、取り押さえ報告、訓戒、裁定、不審者監視、優良者表彰などが主な仕事であった。耕平は、文政期(1818年〜1829年)には水沼村名主を分家に譲り、自らは年寄となって幕府の役儀に注力した。 文化13年(1816年)、8代耕平は足尾銅山吹所(製錬・鋳造所)世話役を拝命し、苗字帯刀も許された。耕平は武蔵国本庄宿の名主戸谷半兵衛光寿ら3人と上野国の有力名主加部安左衛門兼重ら3人を合わせた6人衆の一人として老中、勘定奉行の裁可の下で初めて苗字帯刀を許された。この時6人衆が共に同管下の足尾陣屋との深い関係から足尾銅山吹所世話役(幕府直営の足尾銅山を資金面から支援する役儀)も拝命した。世話役の加部と戸谷は各金1,000両、他4人は各金750両、合計で5,000両を幕府に上納した。本庄宿は中山道69次で最大の宿場で、足尾銅山を起点とするあかがね街道(銅街道)の終端となる利根川平塚河岸(現伊勢崎市境平塚)近くに位置した。銅山吹所で精製された丁銅(ていどう)や輸出用棹銅、足尾銭座で鋳造された寛永通宝足字銭などが平塚河岸まで陸路運搬された。この平塚は舟運に積み換える中継拠点となっていた。足尾銅は平塚河岸から下流の関宿を経て江戸川に入り、更に中川(大落古利根川)、小名木川を経て隅田川端の銅山江戸御役所(江戸浅草猿屋町(現台東区浅草橋3丁目))まで高瀬船などの舟運で運搬された。寛文・貞享期(1661年〜1687年)が銅山の全盛期であったが、元禄期(1688年〜1704年)には産銅量激減により幕府は運営資金難に見舞われた。鎖国中の日本では銅が一時期最大の輸出品であったため、幕府の重大問題となった。文化14年(1817年)には休山状態に至った。星野家では岩鼻代官所の命により、早くも4代彌兵衛(寛永21年(1644年)生〜享保3年(1718年)没、74歳)の代より産銅量がピークを過ぎた足尾銅山を財政支援(銅山御用金の運用、銅山師への貸付等)する役儀を担い、彌兵衛はしばしば水沼と足尾銅山代官所(岩鼻代官が兼務)との間を往復した。 長太郎の祖父9代長兵衛(星野七郎右衛門朋寛;寛政3年(1791年)生〜安政2年(1856年)没、65歳)と続く10代彌平(長太郎の父)が、郡中取締役や足尾銅山吹所世話役などの役儀と苗字帯刀の特権を受け継いだ。長兵衛の代となる天保期(1830年〜1843年)には51町6反(154,800坪)の土地、持高にして300石余を有して上州(現群馬県)一国を代表する豪農となった。長兵衛は幕府勘定所とも緊密な関係を築いて幕領支配の一翼を担うまでの存在となり、天領山中入18ヵ村の年寄役で給人格(勤中騎馬槍差許)の待遇に処せられた。 天保4年(1833年)、9代長兵衛(44歳)は、幕府(老中水野出羽守忠成)の申し渡しにより上野国碓氷郡(後の群馬郡倉渕村川浦、現高崎市倉渕町)の川浦山(幕府直轄御林御巣鷹山)における幕府御用材伐採事業を大戸村の加部と共同で請け負った。9代長兵衛は経理として、吾妻郡大戸村(後の吾妻郡吾妻町、現吾妻郡東吾妻町)の名主加部安左衛門兼重(69歳)は現地差指として両名の全責任で大規模且つ困難な事業を遂行した。杣人、木挽、筏師は幕府がヒノキ林の木曽谷やスギ林の天竜川方面から手配した。一部不足分は無償で百姓持林が充てられた。川浦には幕府御用材搬出御会所(陣屋)が設営され、作業困難な秋冬期を除き幕府役人が交代で指揮監督にあたり、請負は3年余にわたった。長兵衛は息子金輔を常駐させ自分も度々ここに詰めて管理監督にあたり、江戸の幕府御用材木蔵(現江東区毛利二丁目 猿江恩賜公園付近)にも足を運んだ。命じられたのは御用材の伐採・製材から江戸の小名木川に通ずる横十間川に面した御用材木蔵に納める一切の仕事であった。川浦から江戸までの運搬は、烏川を経て新町で本筏(総数116艘)を組み利根川を下り、通常9日間を要した。御用材(主にスギとケヤキ)は江戸城二ノ丸の修復や西ノ丸隠居曲焼失後の復旧再建に使用された。御用材総本数は9,266本。総支出額は3年間で5,388両に達したがその内幕府負担分は2,800両のみで、差額は星野らの負担となり献上金は2,500両を超えた。 天保の大飢饉の最中に甲州(幕府直轄領)では天保騒動が発生した。国定忠治の逸話の残る上州でも各地で騒動が勃発した。幕府直轄領黒川郷では天保4年(1833年)から飢饉はなはだしく困窮者が増え、祖父9代長兵衛は救済に動いた。村々の至る所で多数の餓死者が出る悲惨な状況下、天保7年(1836年)穀物問屋の価格引き上げに端を発した農民騒動が起こった。張札による打毀しの呼びかけにより黒川山中入の村々から数百名が徒党を組んで繰り出した。郡中取締役であった9代長兵衛は、大間々町の有力穀物問屋に向かいつつあった群衆の各村代表を呼び集めて必死に説得を重ねた。打毀し回避のため私財500両の提供を約束し、以てその暴発を未然に阻止した。長太郎の父彌平(10代七郎右衛門朋信;文政7年(1824年)生〜明治19年(1886年)没、62歳)は飢饉の後、村民の申し出と協力により背後の北側急傾斜地を切土し南面を盛土し、石垣を擁壁として積み上げて宅地(管星院屋敷跡)を拡張造成した。南面にテラス状に張り出し切り立った二段の石垣の上に建造された武家屋敷風の長屋門と、西側を堂尻川に囲まれた屋敷地により防御力が格段に高められた。高台に位置する上屋敷を自分と家族の居宅(星野家本家屋敷)とし、従来の敷地(旧水沼村役場の敷地、星光院屋敷跡)には下屋敷を建て奉公人らの住まいとした。
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