日麗貿易・日朝貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
日本と高麗に外交はなかったが11世紀から貿易が行われ、対馬の人間が最多で、ほかに筑前や薩摩がいた。日本は真珠、刀剣、水銀、柑橘類などを輸出し、日本船は進貢船とも呼ばれて年1回渡航した。元寇によっていったん貿易は途切れる。 李朝では、応永の外寇以降に貿易の管理を進めて、貿易を許可された日本人は受図書人と呼ばれた。日朝貿易は大きく分けると、(1)公式な通交である使節の進上と回賜、(2)官僚による公定価格を用いる公貿易、(3)商人同士による市場価格を用いる私貿易の3種類がある。取引額は(2)と(3)が大部分を占めた。(1)や(2)には九州探題・守護・国人のような外交と公貿易を兼ねた通交が許可されて、公式な使節は使送船を用いた。(3)には興利倭人と呼ばれた商人が多数おり、小規模な者は対馬の海産物や塩を穀物と交換して食料を入手していた。大規模な興利倭人は豪族の早田氏・中尾氏・小島氏のように朝鮮-対馬-筑前・肥前を結ぶルートで貿易を行った。日本が入港できる場所は、太宗の時代には富山浦と乃而浦で、世宗の時代に塩浦が加わって三浦とも呼ばれた。三浦の乱や倭寇の影響で、最終的には入港地は釜山浦となる。 倭銀の生産が増えてからは、日本の輸出品は銀、朝鮮の輸出品は木綿布だった。木綿布は帆船の帆布や衣料品として日本に普及した。もっとも貿易を活発にしたのは対馬の宗氏であり、他の地域は歳遣船が年1-2艘であるのに対して年50艘が認められていた。朝鮮からの輸出品は博多から国内に流通しており、対馬と博多の間は日朝貿易の往来が多かった。他に大内氏、九州探題の渋川氏、肥前の宗像氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏なども渡航した。日朝貿易は一時中断したのちに15世紀中頃に再開されるが、これは李朝が密貿易に統制をかけようとした目的があった。 中世の東アジアでは中国の陶磁器が大量に流通する一方で、朝鮮半島からは高麗青磁が輸出された。高麗青磁は、朝鮮半島に近い対馬のほかに、東北の安東氏が治めた十三湊でも発見されている。
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